森の雑記

本・映画・音楽の感想

自衛隊と憲法

自衛隊憲法

これからの改憲論議のために

 

はじめに

 安倍氏が首相を辞任してからひと月あまりがたった。いまだに「菅首相」の響きには慣れない。それだけの長期政権だった。安倍前首相は周知の通り「憲法改正」を目指しており、賛否両論ありながらも、安倍政権時には憲法が話題になることは多かったように思う。

 そして首相が交代した現在、改憲論議はどのように変化するのだろうか。もしくは変化しないのか。いずれにせよ、自民党が政権を持っている状態では「改憲」が取り沙汰されないことはないだろう。新体制を迎えた自民党憲法改正推進本部は各派閥の領袖を幹部に据えており、本気度が窺える。

 だからこそ僕らは「改憲」「憲法」について、今一度考える必要がある。なんとなく、じゃなくて意思を持って参政できるように。

 木村草太著「自衛隊憲法」(晶文社)は、憲法改正、特に「自衛隊」に着目し、議論を整理する本である。

 

全体をみて

 9条を中心とした「自衛隊」に関する議論、歴史、法解釈がすっきりと、順を追ってまとめられていた。木村先生の見解には賛否があろうが、純粋な「法律家」の意見としてはオーソドックスなものだと言えそう。

 右も左も関係なく、読むとけっこう面白いのではないかと個人的には思う。

 以下、興味深かった点について。

 

抱き合わせ改憲発議の禁止

 憲法改正には通常の法案より厳しい2/3ルールが設けられている。これは誰しもが知るところであろう。加えて「国会法」68条の3には「憲法改正原案の発議」を「内容において関連する事項ごとに区分」して行うことが定められている。

 これによって、9条と環境権とか、9条と表現の自由とか、性質の異なる改憲案が抱き合わせ(片方が隠されるような形で)発議することはできない。自民党改憲草案に対し、「こんなにやばい条文が隠されていて、それを教育無償化など聞こえのいい案で隠している!」的な批判を目にしたことがあるけれど、見え方はともかく国会での議論においてはそのようなことは起こらないはずだ。

 

軍事権のカテゴリカルな消去

 木村先生がよく持ち出す概念である。憲法には「軍事に関わる権限」を示す条文が一切見られないが、その理由を「わざと書かなかった」と考える概念のことだ。他国の憲法大日本帝国憲法には「軍事権限」に関する条項が確かに存在するのに、日本国憲法にはそれがない。「主権者国民が、内閣や国会に軍事活動を行う権限を負託しない」(p48)という宣言である。こうした考え方を「軍事権のカテゴリカルな消去」という。

 他国の憲法と見比べないと出てこなさそうなアイディアだと思う。

 

自衛隊員は行政官

 しばしば「憲法自衛隊のことは書いていない」という人がいるが、それは誤りである。自衛隊憲法72条が規定する「行政各部」に位置付けられる。だからこそ内閣総理大臣の指揮監督下に置かれるのだ。

 

武力行使・武器使用・戦闘

 自衛隊法では他の国家相手の実力行使を「武力行使」、国家以外のアクターへの実力行使を「武器使用」と明確に文言を使い分けているそう。また、法律用語の「戦闘」は国家同士の戦いを意味するそう。

 こうした文言に関し象徴的なのが2017年の自衛隊日報問題。ここでは、当時の稲田防衛大臣南スーダンで起きた戦いを「戦闘行為」ではない、と答弁した。しかしその後隠していた日報から「戦闘」という言葉が出てきて問題になった。

 この事案について、「南スーダン自衛隊が相手にしたのは国家ではない」という前提を日本政府がとっているため、戦いは大臣の行った通り法律用語の「戦闘」には確かにあたらない。だから答弁は法律的に正しかった、と木村先生は言う。

 

周辺事態・重要影響事態・存立危機事態

 なんかこの辺の「事態」系の用語って曖昧じゃないですか。少なくとも僕はあいまいでした。

 ここに関し、本書を読んだ自分の理解が正しければ、

①まず外国軍の後方支援につき

従来 周辺事態で出動可能 そうでなければ特別措置法が必要

2015安保法制後 重要影響事態で出動可能

②次に防衛出動の要件につき

従来 武力攻撃事態 切迫事態に出動可能

2015安保法制後 存立危機事態で出動可能

とまあ、こんな風に分けられると思う。各「事態」の定義については本書を読んで欲しい。言葉が使われるシチュエーションは各々限定されている点にご注意。法律を考えるとき言葉の定義や射程って本当に重要。

 

解散と憲法53条

 現行憲法下では、内閣に「解散権」が広く認められている。(ように読める)が、これは憲法53条の臨時国会招集権との関係で微妙、というお話。確かに。

 

おわりに

 読んだそばから記事を書いたので、正直あっているか不安な部分もあるが、ご容赦ください。憲法に関しては学ぶ姿勢、考える姿勢をとり続けることが大事なのではないか、と思っているから、これからも勉強を続ける所存です。なんの話。

きまぐれ星のメモ

きまぐれ星のメモ

 

はじめに

 星先生1冊目のエッセイ集を読んだ。先月はまた別のエッセイ集「きまぐれ博物誌」を読んだが、これは2冊目のエッセイ集だった。順序が逆にはなったが、こちらもぜひ読みたいと思っていたところ、ようやく読むことができた。

 星新一「きまぐれ星のメモ」(角川文庫)。

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全体をみて

 相変わらず、というか「きまぐれ博物誌」よりも星先生の日常に迫った1冊だったように思う。お子さんの話や同業者との交流、アイディアを生み出す過程など、より先生の人となりに触れることができる。太るのを気にしているあたりも2冊目との違いがあっていい。

 それから本書には「味わう」と題されたパートがあって、ここには食事のことを書いたエッセイが集められている。ごく個人的な見方だけれど、ご飯の話を上手、かつうまそうにかける作家にハズレはないと思う。森見先生しかり西加奈子しかり。

 以下、好きなエッセイについて。

 

クマのおもちゃ

 本書冒頭のエッセイ。これを読むだけで期待がものすごく高まる。ドイツ製のテディベアをずっと愛でているチャーミングさ、「テディ」の語源についてなど、たった一つのおもちゃから転がるように話が膨らんでいく。このおもちゃはすごく丈夫だそうで、この一事をもって星先生は「ドイツ人」を信用しているそう。

 そんな浅はかな、とも思ったが、僕たちも同じことをしているに違いない。人の一面のみを見てその人に評価を下すことの多さたるや。

 

ナポリの弾痕

 石造りが多いナポリの建物、その壁にはWW2における戦いの痕が残っているそう。そしてナポリといえば「ナポリを見て死ね」という観光によく使われる文句が有名だが、これは昔の指揮官か誰かが「決死の覚悟でナポリを占領せよ」的な意味で行ったのが最初だそう。戦いの痕を観光に生かす強かな姿勢はなんだか清々しい。

 

ライター

 子供の頃からライターに憧れていたという星先生。父がタバコを吸わなかったせい、というが、確かにそうかもしれない。僕の父はタバコを吸うが、そのおかげでライターなど日常的に目にしていたから珍しくもなんともない。それどころかタバコの匂いがそれほど嫌いではない、というか好きになってしまった。ずっとサッカーをやっていたこともあって今のところ喫煙とは無縁だが、いつか手が伸びそう。

 人がタバコを吸うのは「火」をつける瞬間の魅力にあり、と星先生は言う。

 

世界無味旅行 

 旅先で日本食ばかり食べてしまってとても残念だった、というエッセイ。内容はさておき、このエッセイですごいのはあっさり手塚治虫がでてくること。お二人は同年代に活躍されて、しかも交流があったんですね、、。銀さんとルフィのコラボを見ているような気持ちになった。

 

台所について

 子供の頃、キッチンは確かに神秘の場所だった。火器、凶器があるから容易には近づけないし、母がそこから出てくると同時に食事が提供される。あのエリアはとても魅力的だった。自炊が当然になった今では全くそんなことを感じないが、子供の頃を懐かしく思う、そんなエッセイ。

 

胃の容量

 様々な食べ物が出てくるエッセイ。ハムエッグとか、サンドイッチとか、お茶づけとか、文字で見ると実物以上に美味しそう。これらが登場する文脈がごくありふれた素朴なものであるところもいい。

 

保険の計算

 保険金の支払いはどんどん早くなっているよね、そんな話から始まるエッセイ。これに関してはフリとオチがしっかり効いていて、普通にショートショートみたいだった。

 

おわりに

 短いエッセイを人に読ませるには、まず文章が素朴なこと、それから書き手が著名なことが大事である。どちらも満たせる日は来そうにない。

 

 

財務官僚の出世と人事

財務官僚の出世と人事

 

はじめに

 「財務省にあらずんば」「東大法学部にあらずんば」こんな言葉がまことしやかにささやかれる、官僚の世界。言葉の真偽はさておき、中央省庁では日本きってのエリートたちが日々切磋琢磨していることに間違いはないだろう。中でも財務省は「金」を握る性質上、一段と格式の高い場所に見える。

 選りすぐりの人々が事務次官ポストを目指して仕事を行う「財務省」とはいったいどんな場所なのだろう。そこで働く官僚は何を思うのだろう。岸宣仁著「財務官僚の出世と人事」(文春新書)はそんな彼らの実態に鋭く迫る。

 

全体をみて

 新書ということでやや固めの内容を想像したが、意外とそうでもない。ゴシップ的なネタも多く、半沢直樹顔負けの出世レースの描写は、けっこう読まされるところが多い。文春新書自体がこういうレーベルなのかもしれないが。

また、著者が元読売新聞の経済部記者というだけあって、情報は細かいし具体的だ。夜討ちをかけて取材した時の様子など、真に迫るものがある。

 以下、各章について

 

第一章 十年に一人の大物次官・斎藤次郎

 2009年に日本郵政の社長に就任(現在は退任)したのは、かつて財務省の次官を務めた斎藤次郎だった。表舞台を去ったかのように思っていた彼が再び脚光を浴びたのは、著者からすれば衝撃だったよう。

 そんな斎藤次郎に関する出来事で覚えめでたいのは、日本新党の細川が首班となった連立政権時に掲げられた「国民福祉税」構想。「腰だめ」発言等、物議を醸したこの案は結局水泡に帰したことは周知のところだ。そして背後には、次官斎藤の「剛腕」ともとれるやり方があったそう。

 財務官僚、そのトップの事務次官がいかに仕事を行うかの一端を見ることができる章。有り体に言えばすごく大変そう。

 

第二章 花の四十一年組

 学校でも会社でも「プラチナ世代」とか「伝説の代」とか言われる、輝かしい人々が集まる世代がある。財務省とて例外ではないようで、時々優秀に輪をかけたようなとびきりの人材が集まる年次がある。

「四十一年組」は昭和41年に大蔵省の門をくぐった世代のことを指し、22人のうち司法試験にも合格したのが8人、日銀にも内定をもらったのが3人もいるえげつない代である。その中でも長野庬士は公務員試験が1位、司法試験が2位の成績だったというから驚きだ。

 ここまでのエリートぶりを見ると、もはや言葉が出ない。国家公務員試験と司法試験両方受かるだけでもすごいのに、1位と2位とるとかいったいどういう頭をしているのだろうか。そりゃエリート意識くらい生まれますわ。

 

第三章 大蔵一家のドン・山口組

 山口組とは言っても物騒な方ではなく、山口光秀元事務次官の束ねたチームを指す呼び名。清濁合わせのむスタイルで仕事をする大物次官が関わるこの章は、本書の中で一番面白い。ゴシップ的ネタも多く、僕らの知らない慣行やルールがこれでもかと詰め込まれていた。

 まず面白かったのが「対等役職ルール」。役人の世界で交渉ごとは、同省庁、異省庁問わず、課長どうし、局長同士など、同レベルのポスト間で行われるそう。しかし大蔵省主計局だけは、他省庁の1ランク上の者と対等な交渉ができるそう。

 それから「ワル」。当時大蔵省には宮沢喜一元首相が「ディスインテリ」と名付けた行動様式が定着していて、高潔なスーパーエリートより、多少の汚れをものともしない豪快な官僚が見込まれていたようだ。仕事をこなすだけなら選び抜かれたエリート間でそこまで差が出ないから、遊びを持つ余裕のある方が好まれるのもうなずける。山口光秀は「山口ワル秀」と呼ばれ、吉野良彦元次官に至っては「ワル野ワル彦」と呼ばれていたらしい。

 また省庁ー族議員ー大蔵省、三者間の予算交渉に関する描写なども面白かった。

 

第四章 大蔵vs.日銀

 大蔵省と日本銀行の関係を書いた章。

 日銀の総裁人事は経済部記者にとって至極重要な取材だそうで、「次の総裁人事で抜かれたら経済部にはいられないと思え」なんてことを言われたそう。こっわ。

 それから三重野康総裁ー橋本龍太郎蔵相時代の「公定歩合引き上げ」スクープの話も面白かった。「オレがつむじを曲げると、なかなか元には戻らねえぞ」と言った橋本に対し、「大臣もつむじが四つくらいあるからなあ」という声が飛ぶところは必見。

 

第五章 非主流派の国際派とミスター円 

 今は当たり前にグローバルの時代だが、当時は国際間の金融というものがそこまで重視されておらず、大蔵省の中でも国際金融を扱う「国際派」は非主流派だったそう。

 

第六章 入省成績と出世の相関関係

 これもゴシップ的だけど気になりますよね。「一位で入った人は次官になれない」とか、「四冠王の角谷」とかエピソードには事欠かない。著者曰く、「役人は人事が全て」。経験するポストや次官の椅子取りゲームに熱中する彼らは、とてつもない競争社会に生きている。そういう意味ではなんだか不憫でもある。

 次官の座を射止めるにはノンキャリアにも慕われる必要がある、という部分にも感銘を受けた。自分も職種や職業に関係なく、誰にでも正面から対応できるようになりたいなと。

 

おわりに

 新書でありながら小説を読むようなスリリングさ、ためになる知識がふんだんに練り込まれた良い本だった。官僚になりたいと思うほど頭の出来が良くなくて助かったな、とも。

英国式 暮らしの楽しみ方

英国式 暮らしの楽しみ方

 

はじめに

 イギリスが嫌いだという日本人とあったことがない。和訳するとめちゃくちゃに長い正式国名、アヘン戦争や悪名高い二枚舌外交など、普通に歴史の授業を受けていればまあまあ悪い印象を持ちそうなのに。それでもやっぱり僕らはどこか英国への憧れを持っている。それは産業革命という華々しい功績のためかもしれないし、ロイヤルファミリーの優雅な雰囲気のためかもしれない。とかくイギリスと言うと、「洗練されていて気取らないオシャレさ」みたいなものを想像してしまう。

 中川裕二著「英国式暮らしの楽しみ方」(求龍堂)は、そんなイギリスの気の抜けた生活を書いた1冊である。

 

全体をみて

 自身の経験をエッセイ的に書き、イギリスの日常をルポ。数回観光に訪れただけではなかなか体験し得ない、地に足のついた文章がなんとも心地よかった。「そんなことまで経験したの!?」みたいな詳細すぎる描写も良い。

 以下、気になったところについて。

 

ウェールズ語 

 イギリス人はウェールズ語が読めないらしい。とても意外、同じ島なのにそんなことあるんですね。母音が極端に少ないのが要因の1つだそう。

 現在イングランドフットーボールチャンピオンシップにいるチーム、スウォンジーは、ウェールズ国内に本拠地を置くチームでありながらイギリスのフットボールリーグに参加しているけれど、言語面の障害とかってあるんだろうか。まあゴリゴリに外国籍選手がいるイングランドリーグならあんまり関係ないか。

 

犬はお金を持っていない

 イギリス社会はとても犬に寛容である。パブにも入れるし電車にもバスにも乗れるようだ。著者がタクシーに乗る際、運転手に「もし犬がいたら乗せてくれるか」と聞いたところ快く乗せる旨の返事があったそう。ついでに「料金は?」とも聞くと、「え?犬はお金持ってないでしょう?」と。

 こういう返事がナチュラルに出てくるあたり、イギリスはやっぱりいいなあ、と思ってしまう。

 

ボート

 本書には中川さんが知人2人とボートの旅をするくだりがある。これ完全にジェロームの「ボートの3人男」だな、と思っていたら、やっぱりそれを意識していたようだ。のんびりとした船旅はイギリスの定番バケーションらしい。

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 この章はシンプルに読み物として面白い。食事の様子やほんわかした仲間、出会いなど、自分も一緒にボートに乗っているかのような感覚が味わえる。マフィンのような「クランペット」という食べ物が美味しそうだった。

 

パブ

 イギリスといえば、忘れてはいけないのがパブである。フットボーツの試合日、休日、仕事おわり、何かにつけて英国人が足を運ぶのがここである。今は新型コロナウイルスの影響で苦境に立たされているけれど、いつかは僕も行ってみたい。

 それから直接パブとは関係ないが、イギリスでは普段の食事で「温かい」食べ物はスープぐらいらしい。それ以外はハムやサラダなど、冷たい食べ物をとっているそう。日本とは食事への考え方が随分と違う。

 

おわりに

 ページ数もさほど多くないのであっさりと読めた。1度本書を読めばイギリスに行きたくなること間違いなし。僕もメスト・エジルアーセナルを退団する前にロンドンに行きたかったけれど、ウイルスのおかげでそれも無理そうだ。その前に彼はスカッドから外れてしまったので、テレビ越しにも活躍を拝むことは出来なさそうだけれど。

 

新聞の力 新聞で世界が見える

新聞の力

新聞で世界が見える

 

はじめに

 「新聞離れ」が言われ始めてから長い年月がたった。僕の同世代では日経電子版の無料コースに入っていれば、まだ「新聞に馴染みのある」方に分類されるくらいである。20代前半なんて就活時、社会情勢を眺めるために使う以外で新聞に触れることは稀だろう。もっともその社会情勢でさえ、今はスマホ1台あればTwitterで知ることができるのだけれど。

 時代が変わってかつて以上に情報は「無料」で手にするものに変わった。テレビを買う必要も新聞を取る必要もなく、SNSにさえアクセスできれば世界中のことを知れる。とても便利である。「新聞なんてもういらない」と思うのはごくごく普通だ。

 けれど大統領選を控えた今月、Twitter社はリツイート機能や過激で曖昧な情報に制限を加えた。Facebookも大統領選挙の1週間前に新しい政治広告の受け入れをしないことを決めた。SNS上の情報の不確実性を認めた格好と言えようか。誰でも全世界に発信ができるようになった今、玉石混合のSNSにおいて、正確な情報を自ら選び取ることは非常に難しくなってきた。 

 一方の新聞は情報の精査を企業側が行う。報道姿勢や政治的立ち位置に内容は若干左右されるものの、新聞上に誤報は極めて少ない。というか情報でご飯を食べるのだから、そこに虚偽があっては話にならない。マックのグランに鶏肉がこっそり入っていたら客は離れる。誤報をしたらメディアはこの上なく叩かれるが、言ってしまえば当然だ。

 新聞には基本的に「玉」の情報しか載らない。これは新聞の大きな価値であろう。これこそが新聞が持つ力と言えるかもしれない。橋本五郎著「新聞の力 新聞で世界が見える」(労働調査会)は、SNS時代の新聞の価値を再定義する一冊である。

 

全体をみて

 テレビでもしばしば目にする橋本五郎さんは、本当に新聞を「信じている」のだと思う。この時代における新聞の強みや弱みを精密に分析した上で、僕らの頭と心両方に新聞の良さを語りかける。記者生活が50年を迎えた彼の言葉にはとてつもない説得力があった。

 本書は文字がかなり大きいので、ページ数の割にはあっさりと読むことができた。ちょくちょく話題にされた新聞記事がそのまま掲載されているから、参照も簡単である。(こちらは文字が小さく少し読みにくい)。

 以下、各章について。

 

序章 世界を席巻する新型コロナウイルス

 感染症に際した新聞のあり方を見る章。各紙の編集員やエース記者が特別な論考を行う中、産経新聞の「正しい情報伝え続けます」という見出しが印象意的だった。

 また、海外の感染症事情を分析した記事も面白い。日経新聞が掲載したドイツの対応を取材した記事によれば、なんとこの国、7年前から世界規模の感染症へのシナリオ分析を行っていたそう。ドイツもすごいがこれを取材し記事にした方もすごい。

 

第1章 いざという時に役立つ新聞の力

 改元や震災など大きな出来事に際しては、新聞が大きな役割を果たす。こうしたタイミングではしばしば通常とは異なる大胆なレイアウトがなされることも。例えば読売新聞は元号「令和」がスタートした5月1日の紙面で、通常3面に掲載される社説を1面に掲載。名物コラム「編集手帳」を3面に配置した。また震災1年後、2012年3月11日の1面には「編集手帳」を最上段(いわゆる1面トップ)に掲載。このコラムはまさに息を呑むクオリティで、自分にはこんな文章が書けるだろうか、と感嘆。

 

第2章 新聞はどうやってできるの

 工場的な意味でなく、編集的な意味での「新聞の作り方」について。どのように掲載順を決めているかや見出しの付け方など、話は多岐にわたる。

 面白かったのはよく耳にする「編集委員」「論説委員」「解説委員」の違い。まず編集委員は、会社の意向はさておき、自分の名で個人的見識を示しながら記事を書く人のことを指すそう。次に論説委員。こちらは各分野のエキスパートが就任するもので、「論説委員会」で議論を重ね、合議の上で「社説」など社の意見を書く人のことを指すそう。最後に解説委員。これはテレビに特有の立ち位置で、放送法上「言論機関」たることが認められないテレビ局において、ニュースを分析する人がここに座るそう。この放送法の縛りを振り解こうとした事件として有名なのが「椿事件」。

 

第3章 新聞取材の裏側 

 取材ってどうやるの?という疑問に答える章。

 冒頭に書いた通り新聞に誤報は許されない。そのために綿密な裏どりを行うが、取材過程には「記者クラブ」や「オフレコ」など一般人からは完全にブラックボックスのような世界がある。橋本さんはこれらの意義やデメリットにも触れる。

 この章で衝撃的だったのが2012年、当時の鉢呂経済産業大臣がしたオフレコ前提の発言2つ。1つ目は福島第一原発周辺を視察した際の「死のまち」発言。2つ目は記者と懇談中、記者に防災服の袖を擦り付け、「ほら、放射能」と言ったこと。

 前者はまあ個人の感想としてギリギリ許容出来なくもない(もちろんこのような発言はオフレコだとしても断固として許してはなるまいが)。しかし後者に至っては「小学生か?」と思ってしまう。小さい頃に時々あった「〇〇菌」的な気分の悪さを覚える。というかむしろ呆れて笑ってしまう。

 オフレコは重要ポストの方々や渦中の人物から話を聞く上で必要なことだと思う。だがだからといって、なんでも発言して良いわけじゃない。オフレコでもオンレコでも人格を疑われるような発言はするべきじゃないなあ、と思う。

 

第4章 スクープはこうして生まれた

 報道機関の花形仕事、調査報道とスクープについて。

 もちろんこれには誤報の可能性が常に付き纏うので慎重に、というお話。

 

第5章 新聞から「世界」と「日本」が見える

 ものを見る視点として、ミクロで見る「鳥の目」とミクロで見る「虫の目」が大事、という言い回しが本書では繰り返し出てくる。これは小池百合子著「希望の政治」でも何度か出てくるある種の格言である。ここに「魚の目」を加えるところがなんとも彼女らしかった。

 

第6章 新聞の上手な使い方

 スクラップ、おすすめです。僕もやってます。

 

おわりに

 思ったより長々と感想を書いてしまったけれど、それだけ面白かった本だということで、ここはひとつ。大統領選も近い上、衆院の任期も近づくから、「報道」の価値はしばらく高まっていくことだろう。正しい情報を得て自分なりの選択をするために、新聞を選択肢に入れるのは悪くないかもしれない。

 

 

村上春樹 翻訳(ほとんど)全仕事

村上春樹 翻訳(ほとんど)全仕事

 

はじめに

 村上春樹の小説を1冊しか読んだことがないのにこの本を読むのは、自分でもどうかと思う。翻訳に至っては1冊も読んでいないし。それでも綺麗な表紙と「翻訳」の言葉に引かれて本書を手に取ることを、寛大なファンの方々は許してくれるのではないか。

 「村上春樹 翻訳(ほとんど)全仕事」中公新社 は、タイトルの通り、村上春樹が彼の「翻訳」してきた本達を振り返る1冊だ。そもそも僕は「翻訳家」の仕事に昔から興味があった(翻訳家になりたいことを意味しない)。そしてこれは間違いなく岸本佐知子さんの影響である。彼女のエッセイを読んでいると、翻訳を仕事にしている人々がいかにも不思議で魅力的な人種に思えてくる。

 この間初めて村上作品を読んだ際には、「これが村上春樹か」と納得がいく気持ちになった。そんな彼が翻訳について語った1冊とあれば、手に取るのも無理はないだろう、と言い訳させてほしい。

 

全体をみて

 前半はこれまで彼が手掛けた翻訳を振り返り、後半は翻訳家柴田元幸さんとの対談が収録されている。どちらも読み応えあり。

 以下、前半部と後半部について。

 

翻訳作品クロニクル(前半)

 ここでは気になった村上春樹の翻訳作品をピックアップしようと思う。

 まず、「夜になると鮭は」。今となっては有名なアメリカ作家レイモンドカーヴァーだが、村上春樹は彼を初めて訳し、その後全作品の訳を手掛けたのだそう。「夜になると」には短編や詩、エッセイが収録されているようである。酒が泳ぐ映像が脳内で再生されるようなタイトルが面白そうだ。

 次はアーヴィングの「熊を放つ」。こちらもタイトルがかっこいいのだが、原題は「Setting Free The Bears」。これを熊を放つ、と訳出するのも1つの才能か。一眼見てわかる装丁は、当然和田誠さんによるもの。こちらもシンプルながら味がある。村上春樹はアーヴィングと一緒にジョギングをしたことがあるらしい。

 それから「偉大なるデスリフ」。村上春樹の訳書といえば「The Great Gatsby」が有名だが、「デスリフ」はタイトルからもわかる通りそのオマージュ作品である。これだけで読んでみたくなる。

 「バースデイ・ストーリーズ」は誕生日にまつわる様々な短編を村上自身が集めたアンソロジー作品。自らも1編書くところがにくい。と思っていたら、あらすじを見るとこれ、教科書とか模試によく出るあの話じゃないですか。レストランでバイトしてる女の子の。この間の「TVピープル」が初めての村上作品だと思っていたけれど、5年も前にすでに出会っていたんですね。

 最後は「大きな木」。これはシルヴァスタインの絵本で、鮮やかな緑色の表紙が可愛い。文字の形を見る限り、おそらくこちらも和田さんの装丁だろう。原題から少し離れたタイトルも親しみやすくて良い。是非読んでみたい。

 

翻訳について語るときに僕たちの語ること(後半)

 村上春樹柴田元幸の対談。まどろっこしい章題がらしい。

 前後半に分かれており、翻訳にまつわる様々な話を聞いていると、翻訳って本当に楽しい仕事なんだろうなと思わされる。いくつか面白かった部分を抜粋。

 ・「すべてを原文で読むべきである」これは柴田さんの言っていたこと。かつて東大の英文科では訳して読むことを嫌う風潮があったそうで、基本的には原文をママ読んでいたそう。脳内言語も英語で読むと言うことなのだろうが、これは確かに大事なことでもある気がする。いちいち日本語に置き換えながら読むのも面倒臭いし。ただ、訳をすること自体に比較言語学的メリットもあるから、どちらがよりいい、とは一概に言い切れない。

 ・「けれん味」村上さんが対談内で出したワード。これどういう意味かわかりますか?僕は全く初遭遇の言葉でした。文脈でいうと「本を訳すること」「朗読」みたいな話があって、文字だけを追うときは邪魔になるけど音だと様になることがある、というような流れで登場した言葉。ググってみると、「ハッタリやごまかしを効かせるさま」を言うそう。なるほど。

 ・「悪文と言われるような文章を、かんなをかけたみたいにきれいにしちゃいけない」柴田さんが自身の講座で語った言葉だそう。そしてこの比喩、©︎岸本佐知子であるそう。毎回書くようだが、この「別人の本で自分の推しの名前が出る」体験って本当に脳内麻薬が出る気がしますよね。ドバドバと。

 

おわりに

 対談の間には「サヴォイでストンプ」の村上訳が収録されており、こちらも面白い。独特のテンポ感と熱狂、冷却、このお話が持つ雰囲気を余すことなく味わうことができる。

 今回出てきた訳書は近いうちに読もうと思う。やれやれ。

 

 

 

TENET

TENET

 

はじめに

 クリストファー・ノーラン監督。超有名なのでもちろん名前は知っていたけれど、インセプションダークナイトを友人にゴリ押しされながら、なんとなく彼の作品を観てこなかった。いつかはね、みたいな。

 そう思っていると、新作「TENET」が公開された。同友人に誘われたので観に行った。事前情報0、あらすじも全く知らなかったけれど、そんなに勧めるなら、ということで。いい機会だし。

 

全体をみて

 これまでクリストファー・ノーラン作品を観てこなかった自分を殴りたい。いや本当に。映画を「観る」というより、これはもはや「体験」である。映像美、描写の妙、圧巻の構成、どこをとってもこれまでも観た映画とは種類が違う。

 正直話の構造が複雑で、初見では理解しきれない部分もあったけれど、にしてもあっという間の2時間半だった。一切の退屈がないし、ずっとドキドキする。個人的に「いい映画か」を決める指標として、「無駄な描写、無理のある描写」がいかに少ないかを観るのだけれど、「TENET」はそれがほとんどない。冗長な描写や突飛な展開が気になって集中できなくなることってあるじゃないですか。「TENET」にはそれが一切ない。ハイテンポかつ怒涛、だが緻密。

 以下、好きな場面。

 

オペラ襲撃

 冒頭オペラハウスがテロに遭うシーン、ここだけをとってもこの映画を見る価値があった。「クリストファー・ノーランってどんなもんかな」と椅子に浅く腰掛けたのも束の間、気づくとスクリーンに釘付けに。スピード感、カメラワーク、緊張感、、、たった5分で「あ、これとんでもないぞ」と。 

 オペラハウスの観客が全員催涙ガスで眠る画面はものすごく気味が悪い。でもなぜか目が離せない。

 

海に飛び込むキャット

 セイターを殺した後、海に飛び込むキャット。かつての弱かった自分に見せ付けるように、ダイナミックにジャンプする姿はなんともかっこいい。自由とはかくあるべし、的な。

 

誰に雇われた?

 この映画で一番かっこいいのは、誰がなんと言おうとニールだ。主人公のパートナーとして、時にお茶目に、時にシリアスに困難に立ち向かう姿もさることながら、彼の正体がわかった瞬間の感動と言ったらない。名前のない主人公は正体を知って涙を流すシーン、気付いたら僕らも泣いている。

 ラストシーンではなんだかニールが3人くらいいる気がしたのだけれど、じっくり考えながら解説を見ると、それにも納得。いやはやすごい仕掛けである。

 

おわりに

 間違いなくもう一度見る映画。「起きたことは変えられない」「感じるのよ」名言も多いこの映画は、単純に映像芸術を、また練りこまれた劇構成を同時に楽しめる超名作だと思う。