森の雑記

本・映画・音楽の感想

村上春樹 翻訳(ほとんど)全仕事

村上春樹 翻訳(ほとんど)全仕事

 

はじめに

 村上春樹の小説を1冊しか読んだことがないのにこの本を読むのは、自分でもどうかと思う。翻訳に至っては1冊も読んでいないし。それでも綺麗な表紙と「翻訳」の言葉に引かれて本書を手に取ることを、寛大なファンの方々は許してくれるのではないか。

 「村上春樹 翻訳(ほとんど)全仕事」中公新社 は、タイトルの通り、村上春樹が彼の「翻訳」してきた本達を振り返る1冊だ。そもそも僕は「翻訳家」の仕事に昔から興味があった(翻訳家になりたいことを意味しない)。そしてこれは間違いなく岸本佐知子さんの影響である。彼女のエッセイを読んでいると、翻訳を仕事にしている人々がいかにも不思議で魅力的な人種に思えてくる。

 この間初めて村上作品を読んだ際には、「これが村上春樹か」と納得がいく気持ちになった。そんな彼が翻訳について語った1冊とあれば、手に取るのも無理はないだろう、と言い訳させてほしい。

 

全体をみて

 前半はこれまで彼が手掛けた翻訳を振り返り、後半は翻訳家柴田元幸さんとの対談が収録されている。どちらも読み応えあり。

 以下、前半部と後半部について。

 

翻訳作品クロニクル(前半)

 ここでは気になった村上春樹の翻訳作品をピックアップしようと思う。

 まず、「夜になると鮭は」。今となっては有名なアメリカ作家レイモンドカーヴァーだが、村上春樹は彼を初めて訳し、その後全作品の訳を手掛けたのだそう。「夜になると」には短編や詩、エッセイが収録されているようである。酒が泳ぐ映像が脳内で再生されるようなタイトルが面白そうだ。

 次はアーヴィングの「熊を放つ」。こちらもタイトルがかっこいいのだが、原題は「Setting Free The Bears」。これを熊を放つ、と訳出するのも1つの才能か。一眼見てわかる装丁は、当然和田誠さんによるもの。こちらもシンプルながら味がある。村上春樹はアーヴィングと一緒にジョギングをしたことがあるらしい。

 それから「偉大なるデスリフ」。村上春樹の訳書といえば「The Great Gatsby」が有名だが、「デスリフ」はタイトルからもわかる通りそのオマージュ作品である。これだけで読んでみたくなる。

 「バースデイ・ストーリーズ」は誕生日にまつわる様々な短編を村上自身が集めたアンソロジー作品。自らも1編書くところがにくい。と思っていたら、あらすじを見るとこれ、教科書とか模試によく出るあの話じゃないですか。レストランでバイトしてる女の子の。この間の「TVピープル」が初めての村上作品だと思っていたけれど、5年も前にすでに出会っていたんですね。

 最後は「大きな木」。これはシルヴァスタインの絵本で、鮮やかな緑色の表紙が可愛い。文字の形を見る限り、おそらくこちらも和田さんの装丁だろう。原題から少し離れたタイトルも親しみやすくて良い。是非読んでみたい。

 

翻訳について語るときに僕たちの語ること(後半)

 村上春樹柴田元幸の対談。まどろっこしい章題がらしい。

 前後半に分かれており、翻訳にまつわる様々な話を聞いていると、翻訳って本当に楽しい仕事なんだろうなと思わされる。いくつか面白かった部分を抜粋。

 ・「すべてを原文で読むべきである」これは柴田さんの言っていたこと。かつて東大の英文科では訳して読むことを嫌う風潮があったそうで、基本的には原文をママ読んでいたそう。脳内言語も英語で読むと言うことなのだろうが、これは確かに大事なことでもある気がする。いちいち日本語に置き換えながら読むのも面倒臭いし。ただ、訳をすること自体に比較言語学的メリットもあるから、どちらがよりいい、とは一概に言い切れない。

 ・「けれん味」村上さんが対談内で出したワード。これどういう意味かわかりますか?僕は全く初遭遇の言葉でした。文脈でいうと「本を訳すること」「朗読」みたいな話があって、文字だけを追うときは邪魔になるけど音だと様になることがある、というような流れで登場した言葉。ググってみると、「ハッタリやごまかしを効かせるさま」を言うそう。なるほど。

 ・「悪文と言われるような文章を、かんなをかけたみたいにきれいにしちゃいけない」柴田さんが自身の講座で語った言葉だそう。そしてこの比喩、©︎岸本佐知子であるそう。毎回書くようだが、この「別人の本で自分の推しの名前が出る」体験って本当に脳内麻薬が出る気がしますよね。ドバドバと。

 

おわりに

 対談の間には「サヴォイでストンプ」の村上訳が収録されており、こちらも面白い。独特のテンポ感と熱狂、冷却、このお話が持つ雰囲気を余すことなく味わうことができる。

 今回出てきた訳書は近いうちに読もうと思う。やれやれ。