森の雑記

本・映画・音楽の感想

花束みたいな恋をした

花束みたいな恋をした

 

はじめに

 話題の映画「花束みたいな恋をした」を観た。予告やクチコミを目にする限り、共感性羞恥を催しそうなのであまりみたくなかったが、妹に誘われたので喜んで映画館に向かった。

 以下、思ったこと。

 

深夜の居酒屋

 麦と絹は初めて会った後、2人で居酒屋に。話が弾むが、偶然その居酒屋に麦憧れの卯内さんが。彼女に誘われるまま、卯内卓に移る麦。その様子を見た絹は「ちす」と言い残して去っていく。追いかける麦。

 このシーン、個人的に本作の大きな分岐点ではないかなと。

 まず、その日に会った絹を、憧れの卯内さんより優先するか。自分ならできないかもしれない。タイミングよく女子2男子1の連れ合わせ。自分が入れば同数。空いている隣の席。ちょっと前に苦い思いもしたし、これはリベンジの大チャンス。

 おそらく麦もそう思っただろう。だから一度は卯内さんの席に。けれどそこに寂しそうな顔をした麦が「ちす」と声を残す。

 ここの一言が「またね」とか「今日はありがとう」だったら、麦は追いかけてないかもしれない。単に「不思議な出会いだったな」で終わっていたかもしれない。だがそこにはたった2文字。これは追いかけざるをえない。

 絹はこういうところが強かでかわいい。

 

スケッチブック

 はじめて絹が麦の部屋に行くシーン。机の上にスケッチブックを見つけた絹をみて、焦る麦。この場面、すごくお気に入りです。

 なぜかといえば、麦の人間らしい部分がすごく出ているから。このスケッチブックを見られたくなければ、絹が来た途端真っ先に隠すはず。あんなに大事なものの存在を忘れる訳が無い。だから、わざと出していたんだと思う。それをあたかも「見つかった」かのように演出することで、絹に作品を見てもらえる。

 菅田将暉の欲を透けさす演技もすごい。過剰評価かもしれない。

 

パズドラ

 心がすり減ると、重厚なコンテンツを味わえなくなる。自分も部活に打ち込んでいた時は本や映画をあまり見なかった。時間がなくはないのだが、睡眠や手軽なゲームに興じる方が楽なので。

 麦の「パズドラしかできないの」発言には心が抉られた。

 

おわりに

 単なるエモ系映画かと思いきや、微妙な心理描写が光るいい作品でした。

「話し方」の心理学

「話し方」の心理学

 

はじめに

 巷に溢れるコミュニケーション本は、大体表紙が白い。そこに黒くて太い文字でタイトルが書いてある。帯には中田敦彦かDaigoの推薦コメントが書いてある。内容は「話すより聞け」。偏見がすぎるかもしれないが、コミュ本への個人的な体感は概ねこんなところだ。こうしたバイアスや、ビジネス書を読むとなんだか焦ることもあって、この手の本は避けてきた。

 しかし『「話し方」の心理学』は、少し様子が違う。まず表紙が黄緑色。著者は外国人。ジェシー・S・ニーレンバーグさんという方らしい。しかも「心理学的な話し方」ではなく「話し方の心理学」。つまりコミュ本というより心理学本(っぽいタイトル)。これならば、あるいは。そう思って手に取った。日本経済新聞出版社発行、小川敏子訳。

 

全体をみて

 人間がコミュニケーションを行う際の心理状況を元に、効果的な「会話」を教えてくれる本だった。具体的な会話例もたくさんあって読みやすい。全部外国人どうしの会話だから、ちょっと日本人的な会話とズレる部分もあるけれど。

 本書が画期的なのは訳者あとがきにもあるように、「そもそも人は他人の話など聞こうとしない」そんな視点に立脚しているところ。会話は論理と感情がせめぎ合う場であり、会話相手には特有の事情がある。よって、聞き手は多くの場合、理性的に話を聞く用意などできていない。こうした出発点から、いかに会話を行うか。本書はこういった場面を想定し、ノウハウを教えてくれる。

 以下、覚えておきたいこと。

 

好ましくない感情と論理

 側から見て、明らかに不合理な選択をする人間がいる。そんな時、僕らは彼を相手にその行動の非効率さについて説き、合理的な選択を促したくなる。そして「なぜ非合理な行動をするんだ」と言う。相手より数段利口になった気がする。でも、相手はなぜか納得しないし、行動を変えようとしない。

 こういう場面にはよく遭遇するし、自分も説得する側、される側両方に立つことがある。このケースで、なぜ人は行動を変えようとしないのか、納得しないのか。それは「説得が的外れだから」である。彼の不合理な選択は、おおよそ感情的な理由からなされている。しかし、それを理由にしたら「自分は不合理な人間です」と喧伝することに。だから、もっともらしい理由をつける。

 我々はその付け焼き刃の言い訳に真剣を振りかざしてしまう。相手は馬鹿だ、自分は合理的だ、そう思い込む。相手からしてみれば、そんな理由はでっち上げたもので、本当は感情が背景にあるから、論破されたところで行動は変えない。むしろ苛立つ。

 こういう場面に遭遇すると、実に不快である。先日キャッシュレス決済を頑なに導入しない友人に、もう1人の友人がいかに新決済やクレジットカードが便利でお得かを説いていたが、彼は結局クレカを作らなかった。その際にいくつか理由を述べていたが、おそらくあれは結局のところ、めんどくさいだけだったのだろう。あとは金がなくて心に余裕がなかったか。

 外野から見ていれば、いかに説得しても彼がカードを作らないであろうことは明確にわかった。けれど一度説得モードに入ると、そうした視点は抜け落ちてしまうのだろう。自戒も込めて覚えておきたい。

 

抽象と具体

 抽象的な言葉は、射程が広い。個別の事例に共通の性質を抜き出して作った言葉なのだから、そうならざるをえない。「優しい」「高い」「良い」こんな言葉は各々頭に思い描くイメージが違う。だからこれを使うと、会話が噛み合わないことも。しかし高度なコミュニケーションをするとき、抽象語は必要不可欠である。

 そんな時には、抽象語のあとすぐに具体語を補おう。例えば「彼は親切だ。この間は電車を降りる時に他人が落としたものを、わざわざ自らも電車を降りて渡していた」。これならイメージが沸きやすい。

 

葛藤と反発

 営業などで人を説得する際、思いもよらない反発を受けることがある。でも著者曰く、こうした強い反発は提案を受け入れる前兆であるらしい。

 人は新たな決定をするとき、これまでの価値観から外れることに葛藤を覚える。現状維持は楽だ。しかし提案は明らかにメリットが大きい。こんな時、人は両者の間で揺れ動く。その葛藤はストレスにつながる。だから目の前の相手に「反発する」という形でそれを発散してしまう。

 こうした時はいったん引き下がるの賢明だ。その提案が本当に良いものならば、相手だってそのことはわかっている。ただ、感情的にそれを受け入れる準備ができていないだけだ。一度下がれば、怒りという形で葛藤を発散できなくなり、新たな選択と現状維持の間で再び揺れる。この苦悩を抜け出すにはニュートラルな視点でお互いを見比べ、提案の良さを冷静に認識してもらうことが必要だ。理詰めで押し切るのではなく、まずは相手の感情を尊重しよう。

 

話をするのは気が進まないようですね

 相手が会話に乗り気でない時は、ほとんどのケースで感情的なしこりがある。そんな時には「話したくなさそうですね。何か失礼がありましたか」と言ってみる。そうすれば相手は自分の反発に気づくし、感情的な対応を恥じる。感情の原因が自分でなければ、冷静になって話を聞いてくれるはずだ。

 

おわりに

 残念ながら人間は感情で動く。理性的に見える人でも。合理的な振る舞い以外は社会で受け入れられないから、そういうマスクをかぶっているだけだ。

 だからこそ、人と会話をする時には感情を注視しよう。「そんな風に思ってたのか」「最近どうですか」「〇〇なんですね」こうしたフレーズとともに、まずは相手の感情に寄り添い、発露を助けてやれば、円滑なコミュニケーションへの道が開ける。

 

図説 世界史を変えた50の食物

図説 世界史を変えた50の食物

 

はじめに

 食べ物の映像を見たり、文章を読んだり、話を聞くのが好きだ。もしかしたら食べることそれ自体より好きかもしれない。こうなったのは「食生活改革」の名の下、毎日ほとんど同じ食事をとるようになってからだ。以降、おいしい料理は味覚で楽しむものでなく、視覚や聴覚で楽しむものになった。

 ビル・プライス著、井上廣美訳「図説 世界史を変えた50の食べ物」(原書房)もそんなコンテンツの一つだ。

 

全体をみて

 「世界史を変えた」という観点で、50の食べ物や飲み物をセレクト、たっぷりの写真やコラム付きで紹介してくれる一冊。読むだけでよだれが出てくる。

 全然食べ物に関係ない話も多く、料理と素材がごっちゃになっているなどツッコミどころもあるけれど、「はじめに」を見る限り著者はそれも織り込み済み。とにかく楽しい本にすることを優先してくれている。

 以下、気に入った食べ物について。

 

ビール

 かつて公衆衛生が整っていなかった時代、ビールは清潔で安全な飲み物だった。エジプトのピラミッド建造労働者に対する報酬もこの飲料だったし、古くからビールは人間に欠かせない飲み物だったのだ。

 今の時代でも、もちろんビールは必需品だ。近頃は足が遠のいたとはいえ、酒場での乾杯はビールがなくては始まらない。飲めば最高の気分になれる素晴らしい飲み物に乾杯。

 シェークスピアの「冬物語」にはこんな一節があるらしい。「ビールを買って、一杯飲めば王様気分。」

 

チョコレート

 多種多様に分岐した甘い食べ物。しかし、元をたどれば「カカオ」にいきつく食べ物。かつては飲料として楽しまれていた。マヤではおよそ1000年前から存在していたらしく、歴史の長い食品でもある。

 現在カカオをめぐっては、フェアトレードの問題や利権の問題など、いくつかの歪みも指摘されている。これらを解決しながら、だれもがこの茶色い甘味を味わえるといい。僕はチョコレートがあまり好きではないので、これほど人々をが夢中にさせる理由がわからないけれど。

 

スパイス

 コショウ、シナモン、ナツメグクローブ、、、世界にはたくさんのスパイスがある。いまや「スパイスのなくして料理なし」といってもいいかもしれない。

 スパイスの歴史で好きなのは、大航海時代の話。東からもたらされる香辛料の価値が爆上がりしていた15、16世紀ごろ、航海にでてスパイスを積んで帰れば、航海費用の60倍の金銭を手にすることができたらしい。昔読んだ世界史漫画で、頭の悪そうな貴族が肉にコショウをたくさんかけ、家臣に「ああ、破産ですぞ」と言われているコマをいまでも覚えている。

 個人的にはシナモンがすごく好きである。珍しく甘いものとの相乗効果が高いこのスパイスが使われる料理で好きなのは「チュロス」。テーマパークに行ってこれを食べない回はない。

 

ルンダン

 西スマトラ州の高地で生まれた伝統料理で、今はインドネシアシンガポール、マレーシアなどで食べられている。

 牛肉をココナッツミルクとスパイスペーストで煮込み、水気がなくなったら完成。この本で初めて知った料理だが、実においしそう。ルンダンを提供してくれるレストランは東京にもけっこうありそうなので、いつか行ってみたい。

 

 みなさんはどの種のお茶が好きですか?和食によく合う緑茶、飲むとすっきりするウーロン茶、食後のティータイムといえば紅茶。インドで発明されたチャイティーはシナモンが使われることもあって、大好物である。

 ビールがハレの飲料だとすれば、こちらはケ。日常に根差している。

 このパートではおしゃれな言い回しがある。

 かつて「日の沈まない帝国」とよばれた大英帝国では、お茶を楽しむことは文化の一つだった。(もちろん今もだが。)だから、当時の英国では一日中ティータイムが催されていたことになる。

 

コンビーフ

 加熱した肉をほぐして粗塩で保存し、押し固めて缶詰した食べ物。最後に食べたのがいつか思い出せないけれど、たしかとてもおいしかった気がする。缶詰から食べる特別感も一役買っていたかもしれない。

 この缶詰は軍用にも使われていて、いたる戦地で兵士の胃を満たしていた。過酷な戦場で食べるこの食べ物は、さぞかし美味だったことだろう。

 

おわりに

 文章で読む食べ物は実物以上においしい。でも、本書を読んでその食べ物の来歴や長所を知れば、実際に食べるときの感動は倍増することだろう。

 

新作落語の舞台裏

新作落語の舞台裏

 

はじめに

 落語を生で聞いたことはほとんどない。中学時代、毎年の「古典芸能鑑賞日」で落語が対象になった会もあるが、大変失礼ながらほとんど睡眠に費やしたくらいである。落語とは縁のない生活を送ってきた。

 だが最近、YouTube立川談志の「芝浜」をみたり、インスタで落語を漫画にしている人の「頭山」をみたり、SNSの発達及コンテンツ発信の多様化によって、ちょくちょく落語に触れる機会が増えてきた。

 何事も少し知識がついてくると面白くなるもので、一度寄席に行ってみたいと思うまでに。ただ、今は古典的なネタは名手たちのモノがいくらでもネットで見られる時代である。せっかく行くのなら新しいものが見たい。それに何やら新作落語なるものもあるらしい。それなら足を運ぶのもやぶさかでない。そう思っている折に、小佐田定雄著「新作落語の舞台裏」(ちくま新書)を見つけた。感染症のこともあり、なかなか寄席には行きにくいから、まずはこの本を読んでみよう、ということで。

 

全体をみて 

 新しい落語作品が完成する背景、心境を知ることができる。小佐田さんが作った話ごとにパートが分けられ、各作品への思い入れを語ってくれる一冊。

 そもそも「落語作家」なる職業があることに驚くが、その作り方も面白い。小佐田さんは完全に落語家に「あてがき」をするタイプで、特定の「演者」に話してもらうことを意識して話を作っているそう。これはもらった方も嬉しいのではないか。

 以下、本書で面白かった落語とその裏側について。

 

だんじり

 人情もののお話。なくなった梅の一人息子、寅ちゃんのために秀・勝・米の3人はだんじり囃子を狸のふりをしてこっそり打つ続けるが、ある日諸事情によって3人ともだんじりができなくなってしまう。心配する3人の元に、雨の中だんじり囃子の音色が、、、というエピソード。

 これは「ほんまもんの狸が打ってるみたい」という言葉がサゲになるのだが、ここの解釈や表現が落語家さんによって違う、という話が面白い。ある方は「梅が打ってるみたい」と言ってみたり、ある方は最後に狸のシルエットを映し出してみたり、話し手によって多様なバリエーションがあるのが落語のいいところ。

 もちろん噺家の独自性を生かす「台本」を書いた小佐田さんもさすが。

 

ロボットしずかちゃん

 電化製品がしゃべるようになった世界を描いたSF落語。中でも「しずかちゃん」という電化製品は喋りすぎる他の機械を文字通り「しずか」にさせる機能を持っている。

 設定はスマート家電が主流になりつつある現在そう突飛なものでもない。けれどこれを落語に取り入れるのはなかなか。星新一小松左京筒井康隆らSF御三家が好きな著者ならではの作品。

 ところでこのタイトル、国民的アニメを意識したとしか思えないが、本書ではそこに触れられていない。

 

哀愁列車

 サゲがゾッとする話。タイトルは有名な楽曲からとったそう。僕はこの曲を知らなかったので若干ジェネレーションギャップを感じた。

 内容も面白いが、これを演じた雀三郎さんは最後の車内アナウンスを途中から口パクで行うそう。音を出さず、観客に想像させるなんともお洒落な落とし方である。裏方スタッフは音声トラブルかと思ってバタバタしたんだとか。

 

落言

 落語と狂言がコラボレーションすることがあるらしい。著者は狂言の台本も書いたことがあるらしいが、その時の心境に学ぶところがある。

 新しいものへのチャレンジを打診されるとき、人は誰でも尻込みする。でも、ほんの少しでも「いけそう」と思うなら、飛び込むべきだ。人は殻を破る瞬間に最も成長するものだし、一瞬でも光明をみたなら、大抵なんとかやり遂げられる。この挑戦があるからこそ、次の挑戦は2回目になって、それほどビビらずに受けることができる。

 「アウトプット大全」にもあった「学習領域」である

highcolorman.hatenablog.jp

 

おわりに

 冒頭で著者は落語には4つのサゲがあると言う。「ドンデン」「謎解き」「変(ハズレ)」「合わせ」である。それぞれにそれぞれの面白さがあり、「すべらない話」なんかも大抵はこのいずれかに分類できる。

 普段のエピソードトークでもこの辺りを意識するといいかもしれない。不必要な部分はなるべく削ぎ落とそう。

察しない男 説明しない女

察しない男 説明しない女

 

はじめに

 最近の世相からすると、信じられないようなタイトルの本「察しない男 説明しない女」を読んだ。「男はこう」「女はこう」みたいなレッテルを貼るのには反対だが、本書は2014年にディスカヴァートゥウェンティワンから出版されたもので、つまりかなり前の出版物であるから、致し方ない部分もあるかもしれない。

 いつだったかワイアードの記事を読んで「男性脳」・女性脳」といった分類への批判・反証を知ってから「男は理性、女は感情」みたいな見方には懐疑的になった。生活をしていても自分の考え方は「いわゆる」女性的なものだな、と思うことも多い。

 だから、五百田達成さん著の本書には少々疑問の目を向けて読み始めた。

 

全体をみて

 性別を元に思考の違いを描写していく本だと思ったら少し違う。本書はまず冒頭のチェックリストを使い、自分のコミュニケーションタイプが「男タイプ」「女タイプ」のいずれに該当するかを確かめるところから始まる。つまり本書はストレートな性分類をしていないのだ。

 タイトルと表紙に騙されたが、これはいいことだと思う。書き方や装丁の雰囲気を変えれば、十分今でも通用しそう。

 その上で本書は、「自分と異なるコミュニケーションタイプ」とうまくやりとりする方法を教えてくれる。「異性と」ではない。だからこそ本書は性差の本としてではなく、コミュニケーションの本として読めばけっこうためになる。

 ただし、著者の書き振りは男女で「脳梁」の大きさに差異があることを前提にしているところがあるので、その辺りには注意されたい。

 以下、面白かったところ。

 

どっちが先輩?

 いわゆる男性タイプの思考をする人間は、縦社会の慣習を大事にする。年次や肩書き等は、こうした社会で重んじられるもののうちのひとつである。これがはっきりしていれば、この思考タイプの人間はコミュニケーションが円滑になるし、この手の人間はこうした話をするのが好きである。というのが著者の弁。

 目上の人と話したり、初対面の人と話すときは、(相手が男性思考タイプであれば)さりげなくこの辺りを聞いてみよう。会話が弾むかもしれない。共通の知人や同僚がいたりすれば、当該人物と話し相手の関係を深掘ってみてもいいだろう。

 

変身願望

 いわゆる女性タイプの思考をする人間は、「新しい自分」「いつもと違う自分」に憧れる。幼少期にままごとを好むのもこのタイプの人間。

 こうしたタイプとコミュニケーションをとる時には「いつもと違うあなた」を演出するのがいいらしい。真面目な女性をお姫様扱いしてみたり、弟キャラの男性を兄貴分扱いしてみたり、、、こうすることで会話が弾み、より楽しく関係を深められるかも。

 

分析

 「男は分析されたくない」「女は言い当てられたい」と題するパートでは、男性タイプ思考と女性タイプ思考の自意識の差が語られる。前者は自分の性格や行動原理、遍歴を詳に他者が語るのを嫌い、後者は「こういう人」だと指摘されるのを好む。

 「分析」という行動はえてして上からものを言う形になるので、男性タイプ思考の人間からすればこれほど不愉快なことはない。だからこのタイプと話すときは、相手に「自己分析」をさせるのが良いだろう。注意するときやインタビューをするとき、こちらから「それって〇〇ですよね」と相手に印象を提示するのではなく、「それは何故ですか」と自ら話してもらうのがいいだろう。

 逆に女性思考タイプと話すときは「〇〇さんはこういう人なんですね」「意外と〇〇だなあ」と、ラベリングをしてみるといいかもしれない。「激レアさん」の若林研究員になりきろう。

 

ストーリー仕立て

 女性思考タイプには、結論ファーストの話し方よりプロセス重視の言葉が伝わりやすい。要求をして理由を列挙するのではなく、その結論に至るまでのストーリーを話せば、頭に入りやすいので、そうした会話を心がけよう。

 

おわりに

 冒頭でも書いたが、この本は「異性と」話すための本ではなく、「自分と異なるコミュニケーションタイプの人と」話すための本である。

 当初は自分と異なる思考法の人に合わせて会話するのは、テンポも悪く苛立つことがあるかもしれない。しかし、元来コミュニケーションとはそういうものである。他者理解と受容、この2つができなければ性別を問わず会話がうまくいくことはない。

 であれば、これを学ぶために、本書を読むことにも十分価値はあるだろう。

 

 

西の魔女が死んだ

西の魔女が死んだ

 

はじめに

 塾で中学生を教えていたら、模試の国語で「西の魔女が死んだ」の一節が登場した。鶏が登場する部分を読み、この物語を全部読んでみたいと思った。塾講師をやっているとこういう出会いがあるので助かる。

 新潮社発行、梨木香歩著。

 

全体をみて

 タイトルとは裏腹に、暖かくて色彩豊かな物語だった。モノクロの文章を読んで温度感や色鮮やかさを感じられるのって、すごいことだと思うんです。

 以下、好きな場面。

 

冒頭 

 素晴らしい作品は書き出しから素晴らしい。「吾輩は猫である」「青春ポイントの話をしよう」「これは私のお話ではなく、彼女のお話である」、、、。

 この作品だって名作たちに負けていない。「西の魔女が死んだ。4時間目の理科の授業が始まろうとしているときだった。」なんとも味わい深い。

 もしあらすじを知らずにタイトルをみたら、本作がファンタジー小説なのか、それともリアリティ小説なのか判別するのは難しい。「魔女」というワードは現在比喩でしか使われず、言葉が意味するところは判別しにくい。僕らはドキドキしながら最初のページを開くのだ。

 そこに出てくるのは、タイトルと同じフレーズ。まだ分からない。そして次の文章、ここで僕らはほっとするのだ。ああ、この小説は現実が舞台なのだなと。それでも違和感は拭えない。魔女?4時間目?いったいこの小説はどこに向かっていくのだろう。たった2つの文章だけれど、ワクワクをくれる、最高の冒頭である。

 

「マイ」サンクチュアリ

 病気の療養をしつつ、祖母の家に居候を続ける主人公のまい。彼女は祖母から土地をもらう。林の中にある小さなギャップ。柔らかな陽が差し込むその場所を、祖母は「マイ・サンクチュアリ」と呼ぶ。

 ダブルミーニングにいくつもの意味が重ね合わされた素晴らしい言葉。一人称所有格は誰にとっての一人称か。それともまい自身に祖母は「聖域」を重ね合わせたのか。主人公の名前はこの場面のみならず随所に効いてくる。

 

確かに起こること

 魔女は前もって起こることを予知できる。けれど、祖母はあえてそれをしようとしない。だから、祖母は先に起こることわからない。そんな祖母にも一つだけ、確実に予知できる未来がある。それは魔女でなくとも、人間になら誰だってわかること。

 梨木さんはこんな風に「死」を匂わせておいて、僕ら読者に準備をさせる。ここまでくると、タイトルの意味もこの本が迎える結末もおおよそわかる。ああ、くるぞ、と。

 だけどこの本はどこまでもやさしい。この次の場面「その時」が訪れるのは「魔女」ではなく「雄鶏」である。これはこれですごく悲しいのだけれど、まだ耐えられる。例えるなら、プールに入る前、体に水をかけて冷たさに慣らすとき。冷たい事に変わりはないが、これがある事によって入水時の衝撃は和らぐ。

 

後半

 本書の中盤はずっと穏やかな文調である。ぼんやりと柔らかい光の中、まいがすくすくと成長していくのがわかる。しかし後半〜終盤、物語は薄暗い雰囲気に包まれる。雨模様の描写が多くなり、不穏な空気が漂う。それはまるで祖母の故郷イギリスのように。

 

おわりに

 ここ最近読んでいなかったけれど、やっぱり小説はいいなと。新書やビシネス書と違って自分で解釈しながらじっくり読める。

 本書にはまいのその後を描いた「渡りの一日」が収録されているが、そちらも是非読んでほしい。こちらも冒頭に「母親の順子さん」というフレーズがあり、こちらもいろいろ考えさせられる。普通母親のことをこんな風には呼ばない。ってことは、、、みたいな。

アウトプット大全

アウトプット大全

 

はじめに

 1年ほど前からどこの書店に行ってもあるのが「インプット大全」と「アウトプット大全」。ずっとそれなりに気にはなっていたが、ビジネス書はあまり得意じゃない上に、「いつかyoutube大学でやるだろう」みたいな心境で、手を出してこなかった。けれどなかなかあっちゃんがやってくれないので、自分で読むことに。

 サンキュチュアリ出版、樺沢紫苑著。

 

全体をみて

 ビジネス書をそれなりに読んだことがあれば、どこかでみたことがある内容が多い本。本書の価値は経験則等でわかっていることが、改めて言語化される部分にあると言えるだろう。様々なノウハウを「アウトプット」という観点から集約したことは大いに評価したい。

 著者は自分の活動にかなり自信を持っているようで、(意欲的かつエネルギッシュで、成果もたくさんあげておられる方なので、こうなるのも当然だろうが)文章にややナルシズムを感じないでもない。

 以下、本書でためになったところ。

 

3:7

 インプットとアウトプットの黄金比。学習効果を高めるのにはこの比率が最もいいらしい。逆になっている場合が多い。

 自分の受験勉強や試験勉強を思い出しても、アウトプット先行でやっていたときは確かにうまくいっていた。教科書読むより手を動かせ。

 

思いは目で

 「目は口ほどにものを言う」。コミュニケーションの大半は視覚、聴覚情報の交換であり、言語情報はほとんど重視されないという「メラビアンの法則」も有名。

 だからこそ、伝えたいことは矢継ぎ早に言葉を発するのではなく、目をみてじっくりと伝えよう。沈黙していても目を見るだけで通じる気持ちもあろう。

 

書き出す

 ある実験では授業を聞く際に「落書き」しながら聞いていた人の方が飲み込みが良い、という結果が出たそう。黙々と聞くより手を動かしながら聞いた方が吸収できる、というのはその通りな気がする。

 複数人でミーティングをするときなんかもただ会話するより、ノートを広げさせたりホワイトボードを使ったりした方が食いつきがいい気もするし。脳内の情報は視覚的にアウトプットした方が吉。

 

デジタルデトックス

 人がぼんやりしているときは意外と脳が活性化しているらしい。僕らは常に小さな画面を眺め、情報をインプットし続けているけれど、これはアイデアを閃くのにあまり良くない。時折デバイスを投げ捨ててボーッとするのもいいかも。

 スマホを30分くらいみていると、どうしても気持ち悪くなるときってあるじゃないですか。

 

目標は公言する

 目標は口に出した方がいい。陰ながらやる努力は立派だけれども、人が応援してくれた方が頑張れる。目標もアウトプット。

 

学習領域

 人間の行動を捉えるのに、難易度を基準に三層に分けるやり方がある。一層目は「快適領域」。難なくできる行動を指す。次の層は「学習領域」。今はできないが多少頑張ればできる、そんな行動を指す。最後は「危険領域」。高すぎる目標、無謀な挑戦はここ。

 成長するためには二層目に進出し続けることが大事。できることばかりやっていても成長しないけれど、過度な挑戦には不安が勝つ。

 

おわりに 

 かなり王道なビジネス書だと思う。気になるのは、これだけアウトプットの重要さを説く本と対にインプットの本が出ていること。あっちはどんな内容なのだろう。