森の雑記

本・映画・音楽の感想

発想の整理学

発想の整理学

AIに負けない思考法

 

はじめに

 故外山滋比古先生が書いた「思考の整理学」のパクリと見紛うようなタイトル、さらに「AIに負けない」といかにも最近ありがちなサブタイトルを備えたこの本を見て、少し嫌な気持ちがしたのは事実である。でもまあ外山先生自身も何冊か「整理学」の名を持つ本を送り出しているし、何より本書の出版社は「思考の整理学」と同じ筑摩書房である。だったらこれはパクリではなく、愛とリスペクトの元にオマージュがなされた本だと見るのが適当だろう。僕もAIには負けたくないステレオタイプ人間なので、まずは読んでみようと思い、山浦晴男著の「発想の整理学」を開いた。

 

全体をみて

 本書は「発想」を助ける様々なワークを教授してくれる。けれどその作業説明が非常に分かりにくい。適宜図やイラストを挿んでくれるものの、文章だけで説明するのはやっぱり難しいのか、それとも文章が下手なのか。何回も読み返さないと「今何を説明しているのか」が分かりにくい。数十ページも前に出た固有名詞を繰り返しの説明なく使ったり、独自の使い方をする言葉を唐突に出したり、記号が馬鹿たくさん出てきたりと、とにかく頭に具体的イメージが浮かばないような書きぶりである。まあストレートに滞りなく読めないのは僕の頭が足らないせいも大いにあるのだろうけれど。

 ただ、よく読んで理解すると、この本に書いてあることには非常に納得できる。確かに人の思考って山浦さんが言うように展開するし、本書に書いてある発想方法はそれを大いに手助けしてくれそうだ。考え詰めて、と言うよりは直感的に起こる「発想」をスムーズにしてくれるような。

 以下、各章について。

 

第一章 AIに負けない仕事とは何か

 まずは現代の分析。AIは事務作業や数量的アプローチを得意とするので、人は価値判断やコミュニケーションなどの分野で活躍しよう、そんなよくある言説。作者もいくつかの本を読んだ上でこの結論にたどり着いたようだ。

 この章で面白かったのは「問題解決」における西洋と東洋のアプローチ差の話。西洋的な

アプローチは問題に対し「原因を究明して、それを除去する」。東洋は「構造を理解し、要所に治療をして徐々に全体が治癒することを目指す」。今は西洋的アプローチが主流というか普通にされているけれど、東洋的アプローチも見直されてきていると思う。特にサッカーの分野では東洋的アプローチって悪くないんじゃないかな、と。調子の悪い選手を「交代して」なんとかするよりも、その選手の配置や役割を変えて全体を調整することで、試合状況を改善すれば交代枠を使わずに問題が解決できるし。

 

第二章 実態を捉える

 カードを用いたKJ法の説明。ここから実践的なワークの紹介が始まる。詳しくは本書に

譲る。考案者の言語化でさえここまで不明瞭になるのだから、自分が書いたら余計訳わからなくなりそうだから書きたくない。

 このKJ法で作る「見取り図」は問題や現状の構造を把握するのに非常に役立ちそう。

 

第三章 深く考える

 この章はすごい。革命的と言ってもいいかもしれない。著者が「思考の三角形」と名付ける発想の分類方法に感動。

 著者曰く、発想には4つのタイプがある。それをフローチャート的に示してみる。

① まず、問題・課題・疑問・悩みがある。

②a ①に対し「しかし」「だが」「そうは言っても」と逆説的な情報を出す。

②b ①に対し「そういえば」「さらに」「もっといえば」と補足や連想の情報を出す。

③a ②から「ならこうしよう」と解決のアイディアを導く。

③b ②から「とすると」と問題をより掘り下げる。

 発想は必ず①②③のルートを辿る、と言うのが著者の弁で、abそれぞれを使うことで全4タイプの発想があると言う訳だ。

 これは確かにその通りかもしれない。だから、思考に困ったときは上に挙げたような「しかし」「なら」など接続詞を自分に補ってあげれば、思考をこのルートに載せることができる。他者との会話でも使えそう。

 

第四章 企画を立てる

 この章は自らの内なる声を聞く「コスモス法」の説明。こう書くととてもスピリチュアルな感じがしますね。冒頭の説明からこんな感じのちょっと精神的すぎる感じもするのだが、内容は悪くない。意識化ではなく無意識の領域で「自らが何を思考しているか」を知る方法は必見。

 

第五章 実際にやってみる

 著者の提唱する「発想法」を様々な場面で応用する。エクセルを使ってみたり、メールを使ってみたり、やり方は様々。

 この章にあった「日本人にディベートは合わない」という話が面白かった。

 

おわりに

 だいぶ読みにくい本で端折った部分があるので、完全に理解しきったわけではないが、特に3章などは素晴らしい内容だったと思う。パクリなどと思って申し訳ありませんでした。

 

森見登美彦の京都ぐるぐる案内

森見登美彦の京都ぐるぐる案内

 

はじめに

 高校と大学で合わせて5回くらい京都に行った。理由は2つある。中学時代の友人が京都に引っ越してしまい、彼に会いに行くため。それから森見登美彦作品を読んだためである。

 新潮文庫から発行された「森見登美彦の京都ぐるぐる案内」は、森見先生が愛してやまない京都を紹介する本である。2011年に出版されているので、高校の頃も読めたはずなんだけれど、本書の存在を知ったのは大学に入ってから。先日京都に出かけた際にはついに本書を持参して聖地巡礼に勤しんだ。

 

全体をみて

 手軽な紀行文というか、エッセイのような本書。ガイドブックの役割も果たしてくれるので、京都に出かける森見ファンは必携。スポットごとに森見作品から文章が引用されているので、腐れ大学生や狸たち、明石さんが駆け回った記憶を蘇らせながら読むことができる。京都に向かわずともおもしろい一冊。書き下ろしエッセイも2本収録されている。全ページカラー、写真付き。

 以下、本書収録の名スポットについて。

 

鴨川

 等間隔カップルでお馴染みの鴨川。昼にゆっくり散歩するのもよし、夜に祇園の光が漏れる河原で缶ビール片手に語るもよしの鉄板スポット。作品にも度々登場するが、最も印象的なのは「四畳半神話体系」か。

 しばらく川沿いを歩くと通称「鴨川デルタ」があるのだけれど、僕は一度も行ったことがない。毎回時間がなくてそこまで歩くのを諦めてしまうから。いつかゆっくり時間を取ろうと思う。

 それから下鴨神社も。糺(ただす)の森の近くにある矢一郎たちが大好きな神社は、名物「下鴨納涼古本市」の開催地でもある。こちらもシーズンが合わず行ったことがないのでいつか行きたい。

 

進々堂・スマート珈琲店

 森見作品の喫茶店といえばこの2つ。両者ともおいしいコーヒーとパンが味わえます。特にスマート珈琲店ではタマゴサンドを食べよう。ボリューム満点。「聖なる怠け者の冒険」を読んでから食べるとなおよし。

 収録エッセイの1本目で森見先生は「喫茶店で構想を練る」のは「憧れ」だと書くが、まさにその通り。ビジネス的あれこれとか作業的あれこれでなく、喫茶店でじっくり構想を練るのは全人類の憧れではなかろうか。そんな時にはスタバやドトールより古い喫茶店がよく似合う。

 

太陽の塔

 京都じゃないけれど収録されているスポット。それも当然、森見作品には「太陽の塔」があるから。先日京都旅行に出かけた際には少し足を伸ばし、初めてこの塔を見たけれどやっぱり圧巻。「第4の顔」伝説や地下空間など、ワクワクする語り草もあってかとても神秘的な雰囲気だった。クレヨンしんちゃんの「大人帝国」も思い出す。

 

レストラン菊水

 四条大橋を渡ってすぐ、レトロモダンなレストランが見える。それこそ「有頂天家族」でお馴染みレストラン「菊水」である。上品かつ気取らないこのレストランには一度行きたいと思っていたが、先日ついに念願かなってお邪魔できました。夏にはビアガーデンもやっているようなので次はそちらにも。

 近くには北京料理「東華菜館」もあるのでこっちもいつか行きたい。

 

キッチンバーエイト

 今回改めて本書を読み、隅の方に発見した飲食店。京都で「電気ブラン」が飲める希少なお店らしく、行ってみたいと思った。偽物でないことを祈ろう。

 

おわりに

 次に京都に行けるのはいつだろう。しばらくはいけないかも、と思うとやや恐ろしけれど。

子どもの人権をまもるために

子どもの人権をまもるために

 

はじめに

 ついこの間まで高校生だったような気もするが、そろそろ自分を子供だと認識するのが難しい年齢になった。就活を経て社会人を目前にすると、いやでも「大人」になっていると感じてしまう。

 大人を自認することは、「子供」を自分と別の存在だと考えることにもつながる。年下の後輩や公園で遊ぶ小学生を見て、庇護の対象に思うようになったのだ。これまでは守られる側だったけれど。

 木村草太編「子どもの人権をまもるために」(晶文社)は、そんな「子ども」に目を向け、どうやったら彼・彼女らが不自由なく育つかを熟慮する1冊である。

 

全体をみて

 木村先生が各分野の最前線で働く16人方々のお話を編集している。それぞれの論は①家庭②学校③法律・制度の3パートに分けられており、具体的かつ考えさせられる。もちろん暗い話も多い。

 300頁を超える分厚い本ではあるが、各人の章はそこまで長くはないため、細切れに少しづつ読むこともできるから、意外とすんなり読めるのではないか。

 以下、各部記憶に残っている話について。

 

第1部 家庭

 家庭事情が芳しくない子どもに寄り添う方々の話が多い章。かなり過酷な現場で働く人が多く、提示される例も目を覆いたくなるものが多い。自分の家庭がいかに恵まれていたかをひしひしと感じた。

 特に印象的なのが宮田雄吾さんの第1章。宮田さんは精神科医であり、虐待を受ける子どもと関わってきた。

 「虐待を行い続けているのは子ども自身」と彼は言う。これは虐待をする親から子を引き離し、保護した後に施設で様々な問題行動を起こし続ける子どもを評した言葉である。かつて安全に生きることを剥奪された子は、せっかく入った施設の中で物を壊したり職員を傷つけたり、今度は逆に安全を脅かす側になる。また、食事を取れなかったり施設を抜け出してアプリで出会いを求めたり、僕らからすれば「なぜそんなことを」と思うような行動も取る。

 育った環境が歪なせいか、真っ当な環境に適応し難い彼らに、僕たちは何ができるだろう。宮田さんは「極論すると3つ」のことができると言う。①安全な生活環境を保ち続ける。②問題行動の背景は受け入れつつ。社会の枠組みで許される範囲を明示し、少しでも適応できるように支援する。③その子の未来に期待し続ける。①と②に関しては技術的と言うか、訓練さえ受ければなんとかできそうであるが、③はきっと難しい。全く予想外の行動に出る子を相手に、それでも希望を持ち続けるのは並大抵のことじゃない。それでも彼・彼女らにはそれが必要なのだ。③を推すことに「根拠はない」と宮田さんは言い切る。さらに言えば未来は不確定な物だから、期待をもつにせよそこにも根拠はない。でもだからこそ期待は、厳しいバックボーンをもつ彼らの新たな背骨になってくれるんじゃないか。

 

第2部 学校

 ブラック校則や組体操など、近年様々な場面で学校教育の不自然さが顕在化している。教育の場で子どもはどんな苦痛に晒されるのだろう。

 まずは名古屋大学で教育社会学を研究する内田良さんの話から。

 学校の道徳授業において教師は「敬愛されるべき対象として」提示される。したがって道徳の教科書ではいじめやトラブルが題材となることはあっても、体罰が題材になることはない。教師は「望ましい」振る舞いをする主体だと決まっているのだ。

 そんな教師だが時にその「指導」が行きすぎることもある。大貫隆志さんはかつて息子が教師の指導をきっかけに自殺、以後「『指導死』親の会」の共同代表として活動している。子どもにとって「学校」や「教師」は絶対的な価値観である。大人から見れば些細なことに思えても、2つがもたらす影響はあまりに大きい。そしてそれは、子どもの「自殺」という最悪な結果につながることもある。

 小学生の頃熱血風の担任に当たって酷い目にあったことを今でも思い出します。

 それから大原榮子さんが行う、ボランティア大学生と不登校児をマッチングする「メンタルフレンド」活動も素晴らしいと思った。やってみたかったなあ。

 

第3部 法律・制度

 やや固めのパート。ソフト面でなくハード面で何ができるか。

 村田和木さんの「里親制度」論、南和行さんの「LGBT」論、どちらの分野にもまだまだ改善の余地が大きい。権利の主体である子どもに、制度の面からどのようなアプローチができるかを考え続けねばなるまい。

 

おわりに

 改めて自分の育った家庭や、中高の環境がいかに恵まれていたかを認識した。自分はこれが普通だと思っていて、そうでない環境を「異常」だと認識していたが、ある意味それは正しいのかもしれない。というのも、より高い水準の方を「普通」だと捉え、全ての子供が「普通に」このような環境にアクセスできるようにしないといけないからだ。恵まれた環境を普通の環境にする、このことができて初めて「子どもの人権を守っている」と言えるのではないか。

 

SNSマーケティング 第2版

デジタル時代の基礎知識

SNSマーケティング 第2版 

「つながり」と「共感」で利益を生み出す新しいルール

 

はじめに

 「SNS時代」を叫ぶにはもはや時代遅れの昨今。SNSを使いこなすことはビジネスパーソンに必須のスキルであろう。そしてその使い方は1つではない。ある企業はくだけた口調のツイートを頻繁に行い親しみやすさを獲得し、またある企業は洗練されたイメージ写真を定期的にアップしブランドイメージを確立する。ひと口に「SNSマーケティング」と言っても、手法は千差万別に見える。

 本書はそんな十人十色なSNSマーケティングに一定の共通理解を与えるものである。林雅之、本門功一郎著、翔泳社発行。

 

全体をみて

 横書きで書かれ、200頁ちょいの分量。半分は表や図なので、かなり読みやすいと言える。やっぱりビジネス書はすぐに読めるのがいい。SNSマーケティングに携わらないなら読み飛ばしても良いくらい具体的な知識も収録されているので、必要なければ読み飛ばしても大枠の理解には支障がない。

 類書としては「D2C」があるけれど、内容や装丁はこちらの方が洗練されていた気がするので、気になる人はそちらも。

 以下、各章について。

 

Introduction デジタル時代のSNSマーケティング

 SNSが浸透しきった現代の分析を行う。「企業発信のコンテンツは読まれにくい」「情報流通量は増えても消費量は変わらない」など、僕らの実感に即した意見が書かれる。まあ妥当。

 

Chapter1 基礎知識と目的設定

 はい、お勉強の時間です。といった感じの1章。SNSマーケを測る様々な指標や用語などかこれでもかと登場するが、拒否反応が出るような書き方ではないのでご安心を。企業がSNSを始める前に決める4大要素は誰もが知っておいて損はないと思う。

 ①目的 SNS運用でなにを達成しようとするのか。

 ②顧客 「ペルソナ」(具体的なプロフィールを想定する架空の人物)を作り、標的とする。

 ③選択 どのSNSを使うか選ぶ。

 ④想定 トラブル対応や運用方法をあらかじめ考えておく。

 この4つを決めておくことは、円滑なマーケティングの基礎になるようだ。

 

Chapter2 つながりを生むコンテンツのつくり方

 SNSで発信する内容を考える章。ただ闇雲に「出したい」情報を連投してもSNSユーザーは食いつかない。彼らが喜ぶ投稿を心がけるべきである。

 トンボ鉛筆のマトリクス図を用いた投稿は面白い上にためになるいいお手本である。

 

Chapter3 コンテンツの分析方法

 エンゲージメントや反響など、SNS運用を反省するには様々なデータがある。これらを効果的に使って正しい分析をすることで、より精度の高いマーケティングが可能になる。

 例えばしばしばエンゲージメント率(投稿を見た人のうち、いいねや拡散など好意的な反応をした人の割合)は、フォロワーが増えるに従って下がる。これは初期のフォロワーほど企業に愛着のないフォロワーが徐々に増えるためで、仕方がない現象とも言える。これを知らないとせっかくフォロワーが増えているのに、エンゲージメントばかりを気にして新規のフォロワーを置いてけぼりにした運用をしかねない。このように正確な分析・反省には正確な知識が必要なのである。

 またTwitterにおいてはアカウントの法人個人を問わず、PC版でアナリティクスが利用できるようなので、興味がある人は見てみるといいかもしれない。

 

Chapter4 ファンとつながるコミュニケーション 

 ここはもろに「D2C」っぽさを感じる。顧客をアンバサダー化するのは確かに難しい。実質タダ働きだもの。彼らにいかに特別感を与え、信頼を示すかが大切そう。

 

Chapter5 注目を集めるSNS広告

この章では企業アカウントからの発信ではなく、SNS会社にお金を払って行う「広告」の話がメイン。

 ここからは個人的な意見なのだけれど、SNSにおける広告って限界が見えてないですかね。YouTubeの広告には基本イライラしかしないし、Twitterの広告もクリックした試しがない。テレビCMもそうだけれど、基本広告って不快度が高いので、どうにか工夫をしないと出せば出すほど嫌われかねない。だから有名女優を起用したりするんだろうけど。

 一方で小栗旬が出演するカード会社のCMみたいに「見ていて面白い」ものも存在するので、活路はなこともないか。

 

Chapter6 炎上予防と対策

 炎上は常識と情勢意識の欠如から生まれる。時流を意識しつつ、配慮を忘れないことが大事。Chapter1にあるような事前のガイドライン策定も有効だろう。

 

Chapter7 運用効率を上げるおすすめツール  

 SNSマーケティングにまつわる様々なサービスが紹介される。実際に関わる人でなければ読み飛ばして問題ないだろう。

 

おわりに

 この内容をまとめて、ページにきっちり収める形で書き上げる著者の技量はとてつもない。強いて言えば7章でしれっと自社のサービスを紹介していたところが微妙か。まあ当然と言えば当然のことなのだろうが、あの紹介のしかたには若干もやっとする。手前味噌ですが、みたいな枕くらいおけば良いのになあ。SNSメディアにおけるマーケティングには長けている方なのかもしれないが、本という旧メディアでのマーケティングには疎いのかも、なんて。

 

 

 

 

 

アラビアンナイトを楽しむために

アラビアンナイトを楽しむために

 

はじめに

 ディズニーの映画の中で一番好きなのは「アラジンと魔法のランプ」だ。去年公開された実写版は3度も見に行った。あの世界の香り立つ感じというか、熱気というか、そんな部分にはどこか惹かれるものがある。いつか実際に足を運びたい。

 その「アラジン」は「アラビアンナイト(=千夜一夜物語)」でシャーラザッドが語るお話の1つである。他には「シンドバッド」「アリババ」などがあり、いずれも有名だ。しかしこれらはシャーラザッドが語ったごく一部でしかない。

 今回読んだ阿刀田高著「アラビアンナイトを楽しむために」(新潮文庫)は千夜一夜の中でも、それほど有名でない話を紹介してくれる本である。

 

全体をみて

 本書で著者はアラビアンナイトから都合12話を紹介する。もちろんただあらすじを書き並べるようなことはしない。著者の近況や世相などを枕に、徐々に説話へと論が向くので、非常に読みやすい。いわば超優秀なバスガイドがついた千夜一夜ツアーである。こうしたツアーではガイドさんのこぼれ話が意外と印象に残るものだが、本書も例外ではない。1つの説話を語りながら、時々脱線していくのも醍醐味である。

 以下、好きな説話について。

 

右手を呪われた男たち

 シャーラザッドが24夜目に語ったのは、遠い支那の国のお話。ここでいう支那はおそらく中国のことではなく、「どこか遠くにある国」くらいの意味合いだそう。

 背骨の不自由な男をひょんなことで殺してしまった仕立て屋の夫婦は、その夜遺体を医者の家前に放置する。翌朝遺体に気づかなかった医者が男を蹴り上げてしまい、自分が殺したと勘違い。彼もまた隣の家、料理番の男のもとに遺体を捨て、、、と行った具合に、計4組が男に関わることに。こんな感じの話を星新一ショートショートで見たことがある。

 ややあって裁判の結果、「面白い話をしたら全員無罪」となることが決まり、順に総督とっておきの話を始める。

 この「入れ子」構造こそアラビアンナイトの醍醐味である。シャーラザッドは少しでも多く生きながらえるためにこの構成をとったのかもしれない。

 

シャーラザッドの正体は

 ここで語られるのは、魔女マイムナーと魔神ダーナッシュにそれぞれ見初められた、王子カマル・アル・ザマンとブドゥル姫の話。

 運命付けられた2人が険しい道を進む「千夜一夜」定番の流れである。愛の描写はなんとも艶かしく鮮やか。読んでいて恥ずかしくなってしまうほど直球である。ようやく2人が再会した際ブドゥル姫が言う「ずいぶんと忘れっぽいかただこと」セリフには痺れること間違いなし。

 

紺家と床屋の物語

 怠け者の染め屋と勤勉な床屋が旅に出る話。千夜一夜版「アリとキリギリス」といったところか。結局勝つのは勤勉な方。

 ここでは著者の与太話が面白い。イギリスの随筆家ロバート・リンドは「やらなければいけない仕事が山ほどあるのに」「ぐずぐず伸ば」す「瞬間ほど楽しいものはない」と書いたらしい。阿刀田さんもこれに同意し、「屈折した充実感」と言い換える。本書も結局締め切りを伸ばしたようで、この場で編集者さんに謝罪をする。他所でやってください。もっとやってください。

 

絵の中の美姫 

 この記事最後に紹介するのは、絵に描かれた美しい女性に惚れ、彼女を探し求める富豪の話。男嫌いで有名な姫に会うべく困難を知恵(と金)で乗り越える男は、姫が「呪い」にかかっていることを知る。最後は2人でその呪いをといてハッピーエンド、とそれこそディズニーにありそうな物語である。

 この章で面白かったのは「インシャラー」という言葉。これは「なにごとも、神様の思召し」みたいな意味らしい。日本の商社マンがアラブで商売をするときはこの言葉に苦労するようで、契約が履行されなくとも、納期が遅れても「インシャラー」。「しょうがないよね、」みたいに使わないで欲しい。

 何かがうまくいかないとき、心のなかで唱えてみよう。インシャラー。

 

おわりに

 入れ子構造、たくさんの補遺を持つ千夜一夜物語は、数多の物語を飲み込み、淘汰することで現在に至る。

 森見登美彦先生は「アラビアン・ナイト」をモチーフに「熱帯」を書いた。本家に優とも劣らぬ入れ子構造を持った素晴らしい作品であったが、その「熱帯」ですら千夜一夜のうちの1つにすぎないのかもしれない。

 

 

スルメを見てイカがわかるか!

スルメを見てイカがわかるか!

 

はじめに

 先日帰省したときに、養老孟司茂木健一郎著「スルメを見てイカがわかるか!」(角川書店)を実家の本棚から拝借した。タイトルに惹かれて高校生だか中学生だかの頃に1度読もうとしたのだが、内容が全然頭に入ってこなくてやめた本である。

 あの頃からはだいぶ歳も食ったので、もう読めるだろうと思い再び手をつけた次第。

 

全体をみて

 人は成長するものだ。当時読めなかった本書だが、今は面白く読むことができた。固有名詞というか、お二人が独自に名付けた言葉や、彼らの業界では一般的であろう単語が度々出現するので、多少つまづくことはあれど、僕らにはスマホがある。たいていの語は一度説明されてから出てくるけれど、逐一遡るのも面倒なのでiphoneをぽちぽちしながら読んだ。人は成長すると手の抜き方を覚える。 

 以下、各章について。

 

第一章 人間にとって、言葉とはなにか

 養老さんが単独で担当する章。この章はだいぶ読みやすい。

 日本に生まれた僕たちは日本語を「覚える」。日本語は脳内で創造されるのではなく、生まれたときからすでに「外」にある。だから「覚える」のは日本語に脳をアジャストすることと同義である。これは数学のルールを覚えるのと似ている。「2A−A」という問題の「数学的」答えは「A」だけれど、数学的でない捉え方で考えれば「2」が答えになっても不自然ではない。

 言葉ってなんだろう、みたいなことを真剣に考えたことはないけれどこのアイディアには納得できる。言葉はそのまま思考になる。

 

第二章 意識のはたらき

 この章から第四章までは2人の対談が収録される。

 面白かったのは「言葉は変化し難い」ところ。「リンゴ」という言葉はあの赤い果実をさす語だ。もしあなたがある果実を見て「これはリンゴじゃない」と思ったとしよう。しかし周囲はそれを「リンゴ」だと認識している。このときあなたは目の前にある果実に新しい名前をつけるだろうか。

 おそらく大半の人は「あ、これはリンゴなんだな」と思い、自分の意識の方を変える。つまりみんなと同じ「リンゴ」に脳の方をチャンネルする。これが「言葉は変え難い」ということだ。言葉は同一性(他人と同じものを認識する)である。

 

第三章 原理主義を超えて

 三章が一番面白い。ダーウィニズムや資本主義が他のイデオロギーを飲み込んでいく理由、「原理主義」の危うさなど、だいぶ抽象的に思える話が続く。でもわかりやすい。

 確定申告をする個人商店のおばあさんのエピソードが印象的。「システムが嘘を強制する」。

 

第四章 手入れの思想

 しばしば自然保護のモチーフになる「日本の里山」。海外で「環境保全」となれば、ある区域を「保護地区」なんかに指定し、一切人のてが入るのを禁止することがある。ゴミは持ち帰らないといけないし(当たり前だけど)、立ち入ることはできてもとにかく人の痕跡を残すことは許されない。しかし日本では人と山が関わりながら生態系を維持していたりする。

 人間だって「環境」の一部なのに、「自然」から人間を切り離すやり方は、よくいう「自然を支配する」発想が前提にあるのかもしれない。

 それからアメリカの「暴力性」についての記述も面白かった。BLMを予言しているかのよう。

 

第五章 心をたがやす方法

 最後は茂木さん単独の章。「脳は心を生み出す臓器である」と芸術的な一文から始まる。外国語習得に必要なのは「心も動かす」ことだという話が良い。

 いくら英単語を覚えても、なかなかその単語を実感することはない。だって日本語が脳内言語なのだから、他人に嫌なことをされれば「怒るぞ」と思うのであって、「angry」とは思わないでしょう。逆に言えば自分の心が動きそうなときに、日本語ではなく外国語を使ってみれば、脳に外国語のチャンネルが形成される余地が生まれる。

 

おわりに

 茂木さんが担当するあとがきに、「文章を書いて初めて自分の言いたいことがわかる」というような話があった。すごく共感できる。

 ここの記事は、基本的に読書中とったメモを見ながら書くのだけれど、メモには好きなフレーズや下と頁数しか書いていない。だからメモを見ても自分の感想はわからない。しかしそのメモを元にとにかくなにやら書き始めると「これを言おうかな」みたいな部分が出てくる。

 「まずは文章にしてみる」というのを、残りどれぐらいできるかわからないけれど楽しもうと思った。

 

 

 

 

多分そいつ、今ごろパフェとか食ってるよ

多分そいつ、今ごろパフェとか食ってるよ

 

はじめに

 しばらく前にSNSで話題になったJamさんの本「多分そいつ、今ごろパフェとか食ってるよ。」(サンクチュアリ出版)を、1度読んでみたかった。2年ほど前に出版された本だが、タイトルが特徴的なのでずっと頭に残っていた。ようやく読めました。

 

全体をみて

 Twitterで「パフェねこ」シリーズの漫画を投稿し続ける著者。日常生活で感じるもやっとすることをうまくディフォルメする腕はさすが。

 この手の考え方本というか、人生指南本はしばしば個人の経験ベースで書かれることが多い。だから、そのアイディアがそのまま自分に当てはまることは多くないし、違和感を覚える記述もある。だが、その中に1つでも「いいな」と思えるハックがあれば、自分の生活はほんの少し良くなる。真正面から全部吸収しようと読むよりは、気軽に「掘り出し物」を探すような気持ちで読むといいかもしれない。

 以下、掘り出し物だと思った部分について。

 

SNSはハイライト

 「SNSで目に見える幸せは、映画のハイライトだけ見ているようなもの」

この日本語がそもそも気持ち悪いのだが(ハイライトのようなもの、でいいじゃないか)、言わんとしていることには納得。

 写真や動画を簡単に投稿できるようになったSNSは、基本的に充実や満足を表す場所であり、好き好んで醜態を晒す人はそういない。でもそれが当たり前だからこそ、SNSに出ない「陰」を想像してしまう。見せる部分があるということは、見せない部分もあるということだ。SNSで光を発信し続けるのは、見せたくないところの存在をほのめかす。美しい場所の写真を何時間も並んで撮ったり、加工を施したり、それって幸せか?と思っていたが、これは「ハイライト」なのだ。

 サッカーの試合を後日放送するときに使われる「ハイライト」は、見栄えする部分だけに編集されているものだ。そしてこれ自体が、90分の試合そのものよりおもしろいこともある。インスタにそのまま「ハイライト」機能がある時代、わざわざ他人のSNSにとやかく言わず、その人のダイジェスト版を楽しむような気持ちを持つといいのかも。

 

宛名のないものは、自分宛にしなくていい

 この言葉は中学生の頃の自分にそのままあげたい。Twitterに書かれる後ろ向きな言葉にいちいち心配をしていたあの頃。今思えば、もしその投稿が自分宛だとしても、それが明示されていなければ無視すればよかったなあ、と。

 

(今の自分にとって)(都合の)いい人

 他人を「いい人」「わるい人」とジャッジすることがある。でもこの2つの言葉の前には(今の自分にとって)と(都合の)が隠れている。他者の良し悪しの判断は、結局のところ自分本位にしかできない。

 

全く知らない人だったら

 前述の判断には往々にして主観が色濃く出るものだが、それを解消する1つの方法として「顔も名前もわからぬ全く知らない人だったら」という考え方ができる。他者の言動と自分の繋がりを排して、誰ともわからぬ「Aさん」のものとして考えれば、自分本位なジャッジから抜け出せるかもしれない。

 

孤独の大切さ

 ここ数年でようやくわかってきたけれど、1人の時間ってとっても大事。

 

会社を出ればただの人

 同僚も上司も後輩も、会社を出れば家族がいて、誰かに愛される「ただの人」である。社内での関係性はあくまで特定の環境下で発揮されるものであり、だからこそ、重く捉えすぎなくてもいいのだと思う。これは会社でも部活でもサークルでもなんでもそうで、ある環境下で「すごい人」だとしても、一歩外に出れば「そんなの関係ない」。

 ある環境にいることを選ぶ限りは内部のルールに与するべきかもしれない。大学の部活でかつてのキャプテンが言っていた、「サッカー選手なんだからサッカーで判断されるべき」という言葉を僕はいまだに覚えている。すごく真っ直ぐな言葉である。そんな組織に所属していたいと強く思ったものだ。

 でももしその関係性が嫌ならば、単純に環境を離れればいいだけだ。組織を出れば、どんなに偉い人でもただの人で、関係はフラットにできる。

 

おわりに

 ここに書かなかった部分では盛大なクエスチョンマークがつく記述もあったけれど、総じていい本だと思う。読み終わった後に気づいたがなんとこの本、精神科医名越康文先生の監修がついているらしい。「え、だったらもう一回読み直そうかな、」と思ったが、それこそ「全く知らない人だったら」。肩書きを知らずに読んだ上でクエスチョンマークがつくなら、そっちの方が自然な感情なのだろう。