森の雑記

本・映画・音楽の感想

宇宙には、だれかいますか?

宇宙には、だれかいますか?

科学者18人にお尋ねします。

 

はじめに

 夜空を見なくなったと思う。子供の頃は頻繁に流れ星を探したり、親に星座を教えてもらったりしていた気がする。オリオン座を見つけた時の得意げな気持ちだって覚えている。けれど大人になったからか、東京に住み始めたからか、夜に上空を見上げることはめっきり減った。それに気づいたのは書店でウィスット・ポンニミットの絵を見かけたからだ。

 真っ黒な表紙に白とグリーンで描かれる、くるり琥珀色の街、上海蟹の朝」や、みなとみらいスケートリンクでお馴染みの、なんとも可愛らしい彼のイラスト。語りかけるようなタイトル。一瞬でノスタルジーを呼び寄せる魔法の1冊がそこにあった。出版社も河出書房だから安心。次はこれを読もうと決めるのに、そう時間はかからなかった。

 佐藤勝彦監修、縣秀彦編集の「宇宙には、だれかいますか」について。

 

全体をみて

 本書は科学者18人に、宇宙にまつわる8つの質問を投げかけ、その回答を記したものだ。「地球生命はどこからきたのでしょう?」「知的生命体がいる世界には、どんな社会があると思いますか?」など、素朴ながら難しい問いに十人十色な答えが聞ける。

 専門家ということで、ある程度共通の見解(例えば、電波を使った地球外生命体との交信可能性など)もみられるが、「生命の起源」に関する質問は意見に大きなばらつきがあるのが面白い。

 以下、面白かった記述について。

 

なんかヘンな動き

 高井研さんは「生命の定義」に関する質問に、「動き」を見れば生命かどうかがわかる、と回答する。生命の定義には膜、代謝、生殖など様々なものがもちろんあるけれど、僕らはあるものを見ればそれが生き物かどうか「直感的に」わかるそう。これは専門家と一般人にほとんど差がないレベルで備わった能力だと、彼は言う。

 確かにいくら精巧なアンドロイドや獣型ロボットを見ても、僕たちはどこかに違和感を覚える。その正体を言語化するのは難しいけれど、「なんとなく」わかってしまうものだ。それを「なんかヘンな動き」と表すのは言い得て妙である。

 

ブレイクスルー・メッセージ

 地球外へ向け、地球を代表してメッセージを送るプロジェクトのこと。しかし須藤靖さんはこれを「危険な行為」だと考える。

 惑星外にメッセージを送る、これだけ聞くと夢とロマンに満ちた活動のように思う。そう言う類SFをよく目にするし、宇宙版ボトルメールには誰もがワクワクしてしまうでしょう?でもこれは、知らない誰かに自分の居場所を教える危険な行為なのかもしれない。もし受け手の文明が高度なら、電波を逆探知して地球の場所を割り出すなんて造作もないだろうし、その相手が友好的とは限らない。不特定多数に居場所を示すなんて自殺行為ではないか、と彼は言うのだ。

 この視点は全くもって新しい。地球外生命体を本当に信じていないと出てこない発想なのかもしれない。

 

鳥海光弘さん

 本書を読んでいてこの人のパートにたどり着いた瞬間、「あ、流れ変わったな」と思った。めちゃくちゃ硬い文調、ロジカルな構成で回答をしていながら、なんだか距離感が近い。ザ・科学者的な物言いである。ここまでの回答者は初学者に歩み寄ろうとしてくれていたような気がするけれど、それは悪く言えば読者を下に見ているからだ。でも鳥海さんは違う。とてもニコニコしながら、まるで友人のように語りかける彼の言葉に圧倒されること間違いなし。

 また彼は、地球外の生命体と「コミュニケート」するには、まず地球上の生物と「コミュニケート」できないといけない、そんなことも言う。確かに草木や動物ともまともに意思疎通できていないのに、宇宙人と話そうだなんておこがましい気も。

 

Wow!シグナル

 オハイオ州立大学が1977年に宇宙から強い電波を受信。観測したプリントに「Wow!」と書き込んだことからこの電波を上記のように呼ぶそう。由来も名前も一級品に微笑ましい。

 

マルチバース

 物理法則を突き詰めると、あまりにも我々に都合の良すぎる法則に出くわす。なんとも不思議なことだが、この地球のあり方は「生命が生まれるよう」デザインされたとしか思えない微調整が施されているように思われる。これがいわゆる「奇跡の物理法則の微調整」的な考え方である。

 こう言う話を聞くと、確かに地球も1つの生命体のようだと感じたり、ID論で言う「偉大な知性」みたいなものを信じたくなったりしますよね。

 これに反論するのが「マルチバース」の考え方。「宇宙は無数に存在し、物理法則もその数だけ存在する。しかし1つの宇宙、1つの物理法則に生きる我々は、外の法則を感知しえないから、あたかも我々のみに当てはまる法則を『都合よく』デザインされたかのように感じる。」誤っている部分もあるかもしれないが、これがマルチバース的な概念のはずである。

 この概念にはものすごく納得がいく。こういういとも簡単に常識を飛び越えた発想ができる人って、どんな思考回路を持っているんでしょうね。それこそ宇宙人的というか。

 

おわりに

 上記以外にも、各アンケートの最後に「コミュニケーションを撮ってみたい地球外知的生命体の姿」イラストがあったり、ウィスットの短編漫画があったりと盛り沢山の本書。直球的な文系の僕でも十分に楽しむことができた。

 時々空を見てみようかな、と思う。

 

日本語作文術

日本語作文術

伝わる文章を書くために

 

はじめに

 何度も記事を書いていると、定期的に「文章術」系の本を読みたくなる。それはもちろん文章力を向上させるためである。だが一方で、内容をみて「当たり前だなあ」と思う部分が多ければ、自分の成長も実感できるからだ。

 そんなわけで、今回は2ヶ月ぶりの文章術本「日本語作文術 伝わる文章を書くために」野内亮三著(中高新書)を読んだ。

 

全体をみて

 当然だけど、この手の本を書く人って本当に文章がお上手ですよね。固めの言い回しなのに内容がスルスル頭に入ってくる。

 さて、野内さんが提唱する文章術はいわゆる「テクニック系」ではなく、「構造理解」を軸としたもののように思う。日本語を「英語のように」学習することで、きちんと日本語のルールを理解し、表現する。そのために必要なことは暗記する。そんな文章術は小手先のテクニックのように即効性は決して高くないけれど、じわじわと身になってくるはずだ。 

 10年前に出版されながら、まだまだ色あせない本書について、章ごとにみていく。

 

Ⅰ 作文術の心得 短文道場

 「作文に独創は必要ない、使い古された言い回しを上手に使いこなせればいい」

 これが作者のスタンスである。そのためには多くの表現を学び、それらを「借りて」文章を作ることが肝要である。常套句もどんと来い、と言うわけだ。例えば「懸命に頑張る」と言うようなことを表現したければ、「精を出す」と言い換えた方がすんなり読み手の頭に入るように、定番の表現は堅実な活躍をする。

 それから日本語のルールについて。諸言語に比べてそれほどルールが厳しくなく、流動的に見える日本語にも、2つの確固たるルールがあるそう。

①名詞・動詞・形容詞・形容動詞などの述語を文末に置く。

②修飾語が被修飾語の前に置かれる。

どちらも日本語ネイティブなら当然のようにやっているが、改めて言われると納得する。英語では後置修飾がよくされるしね。上記2つに加え、著者が発見した「絶対でない」が読みやすくするルールもある。

③ 文節は長い順に並べる

 例えば移動可能な意味の塊がいくつかある時、長いものから並べると「伝わりやすい」文になるそう。「友人達と・先週の日曜日に・桜の名所として知られる吉野を・訪れた」という文章は、「桜の名所として知られる吉野を、先週の日曜日に、友人達と訪れた」の方が読みやすい。

  最後に「が」と「は」の使い分け。これは多くの場所でたびたび取り上げられる上、決着がついていない。だが、「は」を「対象物の中から1つを取り立てて区別するときに」、「が」を「いくつかの対象物から1つを取り上げ、他を排除するときに」使うという意味では一応の了解をみているようだ。これは以前読んだ「日本語は映像的である」にも出てきた話題だ。

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 この使い分けが命運を分ける場面もある。例えば会社でミスをやらかし、取引先に謝利にいくような場面。課長が「誰も行かないなら俺がいくぞ」と言えば、おそらく部下は「いいえ、私が行きます」となる。一方「俺はいくぞ」と言うと部下は「私も行きます」となる。「が」は他を排除する効果があるので、自ずと動作主がひとりに限定される。そのためこのような場面で使うと「誰か一人が行く」という暗黙の了解を作れる。もしあなたが上の立場で、謝罪になど行きたくないが役職上意思表明をしなくてはならないとき、ぜひ「が」を使おう。

 

Ⅱ 文をまとめる 段落道場

 ここではひたすらに「段落分け」の極意を教えてくれる。著者は口を酸っぱくして「中核文」の大切さを説く。段落は1つの「中核文」(トピックセンテンス)とそれを補う「補強文」から構成し、なるべく中核文を先頭に置くと良い文章ができるそう。先に結論を述べることで、その後の論理展開が乱れにくいためである。

 例えば枕草子はその際たる例で、「春はあけぼの〜 夏は夜〜 秋は夕暮〜 冬はつとめて〜」と見事にトピックセンテンスから始まっている。

 

Ⅲ 段落を組み立てる 論証道場 

 論証には2つのタイプがある。演繹法帰納法である。前者は公知の法則を事実に当てはめて論を立てるやり方、後者はデータを積み重ねて共通項を見出すやり方である。

 どちらを用いて文章を組み立てても良いが、面白いアイディアがあるときは前者、データが豊富にあるときは後者、と使い分けると良いそう。

 

Ⅳ 定型表現を使いこなす 日本語語彙道場 

 ここでは著者が集めた様々な提携表現が紹介される。使ってみたいものをピックアップして紹介したい。

オノマトペ

 とうとう ほとほと

・慣用句

 生き馬の目を抜く 片棒を担ぐ 鬼でも蛇でも来い 尻馬に乗る

 二進も三進も行かない 筆舌に尽くし難い 身も蓋もない 人口に膾炙する

 清濁合わせ飲む

 

おわりに

 紹介した以外にも、「和文和訳」のやり方は日本語を英語にするときに有用な方法であると思ったし、「舵取り表現」も覚えておけば便利そうだった。まずは覚える、そして使う。身も蓋もない言い方をすれば、文章に創造性は必要ないのだ。

 

日本人のひるめし

日本人のひるめし

 

はじめに

 「1日3食」は誰にとっても自明な食事習慣である。これには反論もあるだろう。「朝食は食べられないんですよね、」だがこれも、あくまで3食を基準にした上で「1食少ない」意識から来ている意見だ。やはり現代の僕らは食に関して、「1日3食」を念頭においていることがわかる。

 だがこれは「今」の常識に過ぎない。朝夕だけの食事を基本としていた時代や地域を探せば、枚挙にいとまがない。

 回数だけではない。食事の態様だって移ろう。これまでサラリーマンの昼食は外食、もしくはお弁当がスタンダードだったけれど、テレワークが推進される昨今では様子が変わってきた。

 ところ変われば、時代変われば、食事のスタイルは変わる。ではこれまで、日本人はいかにして「お昼」と付き合ってきたのだろうか。中公新書「日本人のひるめし」酒井伸雄著は、それを教えてくれる1冊だ。

 

全体をみて

 著者が食事に並ならぬ愛と情熱を持っていることがよく伝わってくる。数多の文献を通して考証される「ひるめし」のあり方は、本当に様々なのだなと思わされた。

 また話題が頻繁に移ろうので、読んでいて飽きがこない。こう書くと散逸でチグハグな記述を想像されるかもしれないけれど、あくまで章ごと大きなテーマに沿った上、トピックが入れ替わるので、心配ご無用。

 以下、各章面白かったところについて。

 

第1章 「ひるめし」の誕生

 食の常識は各地各時で全然ちがうよね、と言うお話。中世において、1日に3食を食べるのは異常、もはや悪行だと捉えられていた事もあるそう。

 

第2章 弁当の移り変わり

 常知らぬ道の長手をくれくれといかにか行かむ糧米はなしに

 これは山上憶良の歌。糧米はいわゆる乾飯のこと。当時の旅行では乾かしたお米を食糧として携帯することが多かったが、そんな乾飯を持たずに出かけた心細さを読んだのがこの歌である。水やお湯でふやかして食べていたそう。古代のパパッとライスである。(最近聞かないけどこれって死語なんですかね。)

 それから比較的近い時代のヨーロッパでは旅行すると、泊まったホテルにお弁当を依頼する事も多かったそう。中身はパン、チーズ、紙パックの飲み物、時にはドライソーセージ、なんてものだった。こちらは簡素ながら美味しそうである。景色の良いところでゆっくりと食べたい。

 最後に忘れてはいけない「幕の内弁当」。遡ること江戸時代、芝居の合間に食べるよう売られた弁当が始まり。なるほどそれで「幕の内」と言うわけ。「売る」タイプの弁当はこれが初めてだったようだ。

 

第3章 給食と食生活への影響

 戦後学校給食が始まった際のメニューは、教科書で知る人も多いだろう。パン、脱脂粉乳を白黒写真でみた人もいるのではないか。

 元々米を主食とした日本人だったが、戦後の食糧事情も相まって、一時的に小麦、つまりパンが主食のような扱いを受けた時があった。これは異例のことだそう。というのも小麦は基本的においしくないからだ。小麦は米のように水と熱さえあればそこそこおいしくなるような代物ではないので、パンにしたり麺にしたりと、いちいち加工が必要だ。だから米と小麦が両方収穫される地域では、世界中どこをみても、経済的ゆとりがあれば米が主食になっていく。

 日本の戦後に小麦が米を「逆転」したのは、確かに珍しいパターンなのかもしれない。

 

第4章 外食の発達

 江戸時代の食事と言えば、天ぷら、そば、寿司などの屋台飯である。こちらも教科書や博物館でよく見る。先日江戸東京博物館に行った時、普段ならおいてあるはずの「手に取れる実物大寿司模型」が、コロナ対策でなくなっていたのには深い悲しみを覚えた。

 さておき、この寿司や天ぷらは当時「庶民の料理」であったから、貴族や武士は当然食べなかったそう。屋台形式でなく店形式、中で座って配膳される料理を楽しむ方式を採用する店舗ができてからは、高級路線も浸透していったようだ。とは言え、やっぱり庶民の食べ物であることに変わりはない。

 そんな背景もあってか、よく聞く話だが、現代の高級懐石料亭ではあまり天ぷらを見かけることはない。庶民の食べ物だからね。逆に寿司はものすごく高級路線でハードルのお高いお店も多いような気がするが、ルーツを考えれば百円回転寿司の方が正統なのでは、と思う。

 

第5章 「ひるめし」と麺類

 今や国民食となったラーメン、そば、うどん。これらのルーツを探る。

 

第6章 国民食のカレーライス

 国民食と言えば、こちらも忘れてはなるまい。みんな大好きカレーライスである。

「日本のカレーは本場インドと全然ちがう!」みたいな使い古しの蘊蓄はともかく、スパイスを調合するのではなく、ルーやカレー粉を用いる日本のカレーはお世辞抜きにうまい。ルーツは英国だそう。インド→英国→日本のルートを知れば、植民地的な背景こみでなんだか納得できる。

 いつでもどこでも食べられる上に、調理が簡単であるため、昭和のサラリーマンがお昼にカレーを食べて帰ると、自宅の夕飯もカレーだった、なんてことがよくあったそう。メールくらいすればいいのに、と思ったけれど当時じゃできないか。

 

おわりに

 ライトで面白いことを並べたので、薄い1冊だな、と思われたかも知れないが、そんなことはない。「学校給食の普及により、家庭で子供用の「お弁当」を作る手間が省かれ、ついでに働く者のお弁当も作らなくなったことから、サラリーマンの外昼食スタイルができた(要約)」と言うのは非常に鋭い考察だと思う。何よりこの著者、とんでもない量の文献に当たっている。そんな彼が膨大な知識をもとに、頭が大きくなりすぎないように書いたのが本書なのだ。

 明日の昼食はカレーにしよう。

 

怪しい来客簿

怪しい来客簿

 

はじめに

 岸本佐知子さんの「いま、これ読んでる」より、色川武大著「怪しい来客簿」(文集文庫)を読んだ。不思議なタイトルと風船のように太陽を持つ男の表紙、どちらも心がざわつく1冊である。

 

全体をみて

 著者色川武大は一体どんな人生を歩んできたのだろう。まるでエッセイのような短編集には、戦中の浮き足立った空気や戦後のアウトローな匂いがたちこめる。ウィキペディアを見る限りは、本書のほとんどは彼の実体験を元に書かれたノンフィクションであるようだ。彼が様々な人に思いを馳せる文章はこの上ないリアリティにあふれている。

 現代では想像することしかできない、ダークサイドがすぎる異質な作品。

 以下、3つの気になった編について。

 

サバ折り文ちゃん

 大正時代の巨漢力士、出羽が岳文治郎のお話。著者からひょろっと長い彼への愛情を感じることができる。

 身長を生かした技「サバ折り」で対戦相手を再起不能にさせたこと、相撲取りになるしかなかった境遇、相撲をやめることへの恐怖など、たくさんのマイナスのオーラを纏いながら土俵に上がる彼の姿は涙を誘う。

 時代感と言えばそれまでだけれど、自らの将来を選択できない葛藤を抱えながら頑張る姿は、僕らに全く新鮮である。ただ体が大きいというだけでレールを敷かれてしまった彼には同情するし、著者がそんな彼を応援する気持ちもよくわかる。不遇な「文ちゃん」だったけれど、色川がこうして取り上げたことで相撲界での苦悩が少しでも報われたのではないかな。

 

タップダンス

 学校をサボり浅草に出かけると補導されてしまった著者。そこには年の近い、同じく補導された少年田中守がいた。

しばらくぶりに浅草に行くと、舞台上には田中守の姿が。役者になった田中と落ち合ってコーヒーを飲んでいると、「タップダンサーになる」と宣言される。

 屈折した人間が屈折を消化するには、普通とは違った「何者か」を目指すしかない。他者と同じであることが耐えられなくて、でもそれを表現する術を持たなかった田中が「タップダンス」を志すのには納得がいく。戦時中、田中が下駄を履いてタップを踊る場面にはなんだか感動してしまった。

 

 

墓 

 元職業軍人の父と、その弟は啀み合いながらも仲が良かった、そんなお話。

 この編は言動による心理描写が非常に緻密だった。年老いて少し穏やかになった父、お互いを信頼し合う兄弟、どこか心温まる場面も多い。

 中でも印象的だったのが、叔父と著者がしばらくぶりに会話をする場面。歳をとった著者と叔父が初めて会話らしい会話をする。叔父はこれまで子供相手に見せなかった屈託を垣間見せる。親族に限らず、人と初めて本音を交わす時って、一種の興奮みたいなものを感じますよね。それが意図せず漏れたものなら尚更。

 後半、家の「墓」を探しにいくところもなんだかしみ入る。

 

おわりに

 著者が若い頃自らに課していた戒律にはこんなものがあると言う。

「一ヶ所に淀まないこと」

「あせって一足飛びに変化しようとしないこと」

「他人とちがうバランスのとりかたをすること」

自分流の軸を持った上で、少しずつ継続的な変化を求める。敷かれたレールの上を行ったり、一方で劇的な変化を求めたり、これってありきたりなようでいて求めているものが両極端なのだ。淀まず、流れるように生きていく方が、もしかしたら楽なのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

脳は、なぜあなたをだますのか

脳は、なぜあなたをだますのか

 

はじめに

 僕らは絶えず意思決定をして生きている。夕飯のメニューとか、デートの服装とか、今日読む本とか。生きることは主体的な選択の連続である。

 と思うだろう。

 妹尾武治著「脳はなぜ、あなたをだますのか」(ちくま新書)は、そんな常識を簡単に打ち砕く。人に「意思」なるものは存在しない可能性が高いことが、近年の研究で示されてきている。ではどうして我々はそのような錯覚を持っているのか。このような問いに答えられる可能性がある「知覚心理学」研究者の著書を読んだ。

 

全体をみて

 毎回書いているような気もするけれど、非常に読みやすい本だった。専門的な知識を喩えを用いつつ平易に解説してくれる上、砕けた話も多くてわかりやすい。「クオリア」など、お馴染みのようでいていまいち理解に欠けていた用語もきちんとカバーしてくれる1冊。心理学への理解を深めるために読んで損はない。

 以下、各章面白かったところについて。

 

第1章 脳の中の工場見学

 ベクションとは、「視覚効果によって移動していないのに移動しているかのように感じること(個人的な解釈)」である。電車に乗っていて隣の車両が動くのを見ると、逆方向にこちらの車両も動いているような気がするあれのことだ。著者はこの分野を専門に研究していて、この辺りの話には(当たり前だが)リアリティがある。

 中でも「重み付け」の話が面白い。特定の状況下で、人はある感覚器官の「価値」を下げる。例えば騒音が酷いところでは聴覚情報が役に立たないので、一時的に「音」殻得られる情報の重みを下げるのだ。これは視覚においても成立することで、視覚が鋭敏になる状況、例えば耳を塞がれたりする場合には、反対に資格の重みが上がり、先ほど書いた「ベクション」がより早く強く起こるそう。

 確かにこの重み付け、日常生活でもよく感じる。人に大声で怒られるとき、あまり耳って働いていない感じがするもの。

 それからクオリア。こちらも僕が大雑把に説明すると「個有の主観的感覚」といったところか。あるものを「赤い」と思っても、その赤さは他者が感じる「赤」とは完全には一致しない。色やもの、概念に対するイメージは結局のところ主観に委ねられるから、客観的な測定はむずかしい。「ベクション」もクオリア的なものの1つだ。

 だから著者のいうように「幸せ」と一言にいっても各個に固有の、言語化しきれない定義があるから、「幸せとはなんぞや」という議論には意味がないのかも。

 

第2章 本当に自分の意思で行動しているのか

 答えはNOである。ではなぜ僕らは「意思を持って」行動しているように感じているのか。著者が紹介する前野隆司教授は面白い仮説を立てる。

 人には「エピソード記憶」なる記憶がある。これは以前「奇跡の論文図鑑」の感想でも紹介した、「自らを主体とした記憶」のことだ。この記憶は単純な記憶よりも覚えやすい。「平将門の乱はいつ起きた?」と聞かれて答えられる人は少ないだろうが、「平将門の乱を(私が)授業で習った」という記憶は持っておられる方が多いのではないだろうか。エピソード記憶とはこうした性質を持つ。そしてこの記憶は、過去自らに起きた危険や成功を覚えておくのに有用である。

 ただ、エピソード記憶は「自らが主体的に経験した」ことを覚える記憶である。したがって「自らの意思で行動する」ことが前提にある。本来は「意思」なるものはないが、これを我々の脳が僕らに錯覚させることで、覚えやすい「エピソード記憶」を作り出すことができるのだ。

 このような説、あっているかは別にしても非常に説得力がある。

 

 また、この章で「意思などない」ことを説明するのに用いられた選挙の実験も面白い。被験者にある2人の顔写真を見せ、「どちらが選挙に勝ちそうか」と質問する。この2人は被験者が知らないだけで、実際に過去の選挙に出馬した2人である。するとなんと、被験者は70%の確率で実際の勝者を「勝ちそう」と予想するらしい。政策とか人柄とか、多くのことを考慮していそうな選挙でさえ、7割は顔で決まっている可能性があるのだ。

 

第3章 人間は合理的にふるまう動物なのか

 ダニエル・カーネマンは心理学者で唯一ノーベル賞を受賞した人物である。分野は経済学。なぜかといえば、ご存知の方も多いだろうが、彼こそ「行動経済学」の生みの親だからである。彼以前の経済学は「人は期待値を元に必ず合理的な選択をする」という暗黙の了解があったが、実際人はそんなに合理的ではない。勝算が立たないかけに出てみたり、自らが損をしてでも相手を傷つけたり、人は結局そういう生き物だ。

 当たり前だが検証されていなかったことを、科学的に検証した彼は本当に偉大なのである。

 

第4章 だまされないために、心のからくりを知る

 「H25年度の喫煙率は15%より高い?」と聞かれたら、皆さんはどう答えるだろうか。そして答えは「32.2%」である。この数値をみて「意外に多いな」と思った方が大半であろう。実はこれ、だまされてます。

 「アンカリング効果」とは、提示された条件を無意識に「普通」だと思い込むことだ。先ほどの例で言えば、質問によって喫煙率の「普通」を無意識に15%ほどで設定してしまっている。これは海外の露店などでしばしば用いられるやり口で、「うまくディスカウントしてやった」と思っても、最初に提示されたお土産Tシャツの金額がべらぼうに高かった可能性がある。ちなみに僕はシンガポールでまんまとこれにやられた。

 だまされるのが嫌なら、だます側になるのはいかがだろうか。例えば仕事の納期をあらかじめ極端に遅く設定したり、結婚相手に求める年収を上げてみたり。ばれたら嫌われそう。

 

おわりに 

 著者の名前「妹尾」という文字を僕は「いもお」だと思っていた。そこからイメージするに大人しそうな人なのだろうと。しかしこれは「せのお」と読むらしい。その上彼は思ったよりもワイルドな見た目だ。なんだか小学生の頃「小野妹子」を女性だと思っていたことを思い出した。実際はひ弱そうなおじさんだった。

 両者ともに選挙には勝てなさそうな見た目である。

 

 

 

気のきいた短いメールが書ける本

気のきいた短いメールがかける本

 

はじめに

 就活を経て、社会人に近づくとメールで事務的なやりとりをすることが増えた。メールでの連絡には慣れていないので、ついつい作成に時間がかかってしまうこともある。もっとスマートに、素早くメールが作れるようになろうと思い、ダイヤモンド社「気のきいた短いメールが書ける本」中川路亜紀著を読んだ。

 

全体をみて

 厚みのわりに短い時間で読むことができる。レイアウトも見やすい。敬語表現など当然すぎることも書いてあるけれど、総じて使える本だと言えそう。シチュエーションごとに「定番」のフレーズを教えてくれるので、メール作成時に辞書みたく使うのがいいのではないか。 

 以下、各部ためになったところを箇条書きで。

 

第1部 気のきいたメール仕事

 メール本文ではなく、「メール仕事」の片付け方を教えてくれる部。

・各位 これは敬語だそう。各位様みたいな使い方は二重敬語になるので要注意。使うのは天皇陛下宛ぐらいにとどめよう。

・メールの終わらせ方 目下orお願いをした側が終わらせるのが鉄則。「お礼」メールを持って連絡終了の合図にする。

・To,Cc,Bcc これらの使い分けを全く知らなかった。Toは当然宛先のこと、Ccは参考までに送る人(カーボンコピーの略らしい)に使う。そしてBcc、用途はCcと同じだが、宛先の人にはわからないよう同内容を送る際に用いる(ブラインドカーボンコピー)。自分にこっそり同報する時や、宛先と同報先の間でメールアドレスが漏れないようにする際に便利。

 

 

第2部 この場面ではこう書く!

・アポイント 具体的な日程・時間を提示することで簡潔にやり取りする。

・約束の変更 理由を書きすぎなくていい。「都合がつかなくなりました」とだけ書き、リスケを。後からの約束を優先したと思われることのないように。これは「三島由紀夫レター教室」にもあった。「せっかくご予定いただきましたのに」等の言葉を添えればお詫びの気持ちも表せる。

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・メールを受け取った 謙譲表現として、「拝受いたしました」が便利。

・贈り物 「心ばかりのものですが」を使う。「つまらないものですが」では相手につまらないものをあげる意思表示となる。

・教えてもらう 「ご教示ください」学問でない場合は「教授」は使わない。

・取り急ぎのお礼 「まずは御礼まで」。

・困った 「つかぬことでご相談があり」ドレスコードの有無や詳細を知りたい時など、冒頭に。

・返信がこない 「届いておりますでしょうか」と確認のメールを送る。

・詫びる 「思わず言葉が走ってしまい」など。

・訃報に 「言葉もありません」・

慶事に 新婚旅行で休む相手などに「仕事は忘れて」。

このほかにもたくさんの用例があった。1つ違和感を覚えたのが、そこそこ高価な贈り物をもらった際の「結構なものをいただきまして」。これなんか上から目線っぽく聞こえませんかね。「素晴らしいものを」とか「大変高価なものを」でよくない?

 

第3部 これだけはおさえたい!

 メールにおける「マナー」「時候のフレーズ」について。

・「させていただく」 『敬語の指針』で「させていただく」は①相手方・第三者の許可を得て行うこと②そのことで自分が恩恵をうける事実、気持ちがある場合 の2パターンで用いるのはおかしくない、とされている。「資料を送付させていただきます」とかは微妙か。

ここからは好きな時候の挨拶。

春前「テレビで今日は立春と聞きましたが、春はまだまだ遠いようです。」年に一回しか使えない上に主観的で面白い。

「うららかな日差しに春の訪れを感じます」空が晴れて明るく照る様を表す「うららか」、なかなか目にしないのでメールの中でくらい使ってあげたい。

「コートを脱いだら気持ちまで身軽になりました」このメールもらったら笑顔になれそう。

「今日はまさに春風駘蕩、道ゆく人ものどかに見えます」もらったら絶対「春風駘蕩」でググる

「今日は七夕、今年も半年がすぎたのですね」ラブレターみたいだね。

「外を見たら、入道雲のガッツポーズに元気をもらいました」小学生の詩みたいで素敵。思わず窓の外を見てしまいそう。

 

おわりに

 メールを送る際には、相手への気配りが大切。煩わしくならないよう、押し付けがましくならないよう、簡潔に読みやすいメールを送ろう。思えばこの本のタイトルだってそうだ。表紙を見ただけですぐに買うか否かジャッジできるもの。

 

 

 

 

 

希望の政治

希望の政治

都民ファーストの会講義録

 

はじめに

 小池都知事が再選を決め、任期を伸ばしたのが3ヶ月前。圧倒的な露出度、親しみやすさをもって余裕のある勝利を果たしたように見える。公約の達成度合いやコロナ禍対応など、もちろん課題は残るところだが、盤石な体制は揺るがなかった。引き続き課題に取り組んでほしいという民意が反映された結果だろう。

 2016年に東京都知事に当選して以来、キャッチーなメディア対応と積極的な改革をもって指示されてきた彼女は、どんな理念をもって都政に飛び込んだのか。中公新書ラクレ「希望の政治 都民ファーストの会講義録」は、そんな彼女の立ち上げた政経塾「希望の塾」で行われた講義を書籍化したものだ。直近では「女帝」が出版され、矢面に立つことも多い政治家小池百合子は、一体どのようなモットーで動いているのか。本書を読めばその一端を知ることができる。

 

全体をみて

 講義をほとんどそのまま文章化しただけあって、非常に読みやすい。所々にみられるジョークも上品でタイミングが良い。あのメディア対応にも納得である。全体も200pほどしかなく、小一時間あれば読める。とてもコンパクトで平易な一冊だと感じた。小池さんって本当に話が上手ですよね…。

 以下、各章について。

 

第1章 私の原点

 まず「さすがだな」と思わされたのはこの「希望の塾」を開催するにあたって、託児所を準備したこと。「母親が勉強に専念するために」というアイディアは、なるほど僕には思いつかないものだった。子供がいる母が講義に参加する前提を「父親や家族に預かってもらう」「保育園、幼稚園に行かせる」と決めつけない姿勢は、配慮が行き届いている。

 それから自己プロデュース力の高さ。政治もビジネス同様「マーケティング目線」つまり客観的に周囲・時代の環境を見つめる力が大切である、と彼女は説く。小池都知事の選挙活動やファッション、発信方法、政策をみると、確かに時代をうまく捉えているような気がする。嫌われにくいというか。

 

第2章 予算とメリハリ

 ここで面白かったのは、都庁予算における「政党復活枠」の話。これは「政党」つまり都議会自民党などに与えられる予算枠のことらしい。知事がこの枠を作り、党派に与える。業界団体は本予算に入らなかった(知事が敢えて入れなかった)お金を、知事ではなく党派に「お願い」する。党派はこれに配慮する姿勢を見せ、暗黙で「選挙協力」を要求する。これによって知事は党派に恩を、党派は業界団体に恩を売ることができる。見返りとして知事は党派から都議会での協力を、党派は選挙での業界団体の協力を得られる。

 いわゆる「既得権益」の塊みたいなシステムだが、小池都知事はここに踏み込んだ。知事選の際(党としての)自民の支援を受けなかった彼女だからこそできた部分もあるのだろう。

 

第3章 都市をデザインする

 都市計画の話。ここで1つ面白かったジョークがある。国会議員が地域のお祭りなどに顔を出し、盆踊りを踊る姿を見て「政治家たるものもっと勉強しなさい」と思うこともあるだろうが、彼女に言わせれば盆踊りだって「お作法の一つ」。本音で地域の人と話すことで支持・信頼を得られるようになるのだそう。カラオケ大会に顔を出すこともしょっちゅうあるようで、「カラオケと選挙の共通項は、第一にマイクの善し悪し次第、第二にセンキョク次第」。

 それから彼女が尊敬する7代東京市長後藤新平の名言も。「金を残して死ぬ者は下だ。仕事を残して死ぬ者は中だ。人を残して死ぬ者は上だ。」これ。僕は高校の家庭科の先生から聞いたことがあるのだが、いい言葉ですよね。その人が先生になった理由らしい。

 

第4章 大小さまざまな改革を 

 自分を客観視する能力の重要度を説く小池都知事。そのために必要な「3つの目」について。

 ①鳥の目 物事を俯瞰で、マクロに見る目。

 ②虫の目 物事を細かく、ミクロに見る目。

 ③魚の目 群れをなす魚が水流に従うように、社会の潮流を見極める目。

この「3つの目」は政治家に限らず学生にもビジネスマンにも必要だろう。小池都知事の経歴を考えると、特に「魚の目」を入れるところが彼女らしい。

 さておき、こういう「3つの」とか「〇〇ファースト」とか、わかりやすいキャッチコピーを作るの、本当に「お手の物」って感じですよね…。

 

第5章 東京の希望、日本の希望

 東京がより競争力のある都市になるためには。そんなことを書いた章。

 

おわりに

 政治には「大義」と「共感」が必要である、そう彼女は言う。たしかに、正当な理念のもと、納得できる政策が行われなければ、支持は得られない。そしてこれは、政治のみならず、人と関わる時にも当てはまる。日々を希望をもって生きるために「Action!」しよう。