森の雑記

本・映画・音楽の感想

乱読のセレンディピティ

乱読のセレンディピティ

 

はじめに

 ここで本や映画の感想を書き始めてから10ヶ月がたつ。数えてみるとこれまでおよそ150冊の本を読んできたようだ。月に15冊、2日に1冊読んでいる計算になり、振り返ってみると自分でも驚くほどである。

 全ての本を精密に読んでいるかと言えばそうでもない。難しいところや興味がないところを読み飛ばすこともある。様々なジャンルの本を読んでいれば理系的な知識に触れることもあるが、大体わかればいいのだ。細かい知識があったところで使う機会などほとんどない。 

 とまあ、いわゆる「乱読」に近い読書をしてきたところ、外山滋比古先生の「乱読のセレンディピティ」(扶桑社)と出会った。これは読まなくてはなるまい。

 

全体をみて

 相変わらず読みやすい文章である。(故人に「相変わらず」と言っていいものか)独自の読書論は目新しいし、自分の読書と共通点が見つかると、お墨付きをもらったみたい。

 内容は「思考の整理学」や「日本語の個性」と被る部分もあるが、こういうのを見つけるのが同じ著者の本を読み続ける醍醐味でもある

highcolorman.hatenablog.jp

 以下、面白かった部分について。

 

ノートテイク

 僕は本を読みながらメモをとっている。気になったページ数と内容を箇条書きで並べる単純なものだが、これははてなブログを書くのに大いに役立つ。ところが外山先生曰く「ノートをとるのも、一般に考えていられるほどの価値はない」。心に刻まれたものはノートに頼らすとも覚えているものであり、読んだらまずは忘れてしまうのが良い、これが先生の理論である。

 元々ブログも「せっかくたくさん本を読むのに記録しないのはもったいない」と始めたものだが、この発想自体ダメな気がする。そろそろ潮時か。

 

速読

 英語や古典の文章を読んでいると、頭をいくら捻ってもわからないことがある。しかしネイティブの先生、古典の先生に聞くと「なんでこんなことがわからなかったのか」と驚くことが多い。わざわざ聞かなくとも、翌朝読んでみるとあっさり意味がとれることもある。

 このようなことはなぜ起こるのだろう。外山先生はこれを「速読」の効果だと考える。文章は隣接する単語や文脈との相互作用で形成されるものであり、わからない「部分」に着目したところでその補完関係が読めないのだ。前の単語や文脈の「残像」が残るうちにサクサク読めば、自然と意味がわかる。そう言われるとその通りな気がする。難解な文章に出会ったらまずは読み飛ばしてみよう。

 

乱読

 いろいろなジャンルの本を興味に任せて読んでいくのが乱読である。毎冊隅々まで読む必要はない。この読み方を素でやりやすいのは新聞である。ざっと流し見て、気になる見出しを見つける。リード文を読む。さらに興味を引かれれば全文読む。と言った具合に。外山流の乱読を鍛えるのに新聞はいいらしい。

 情報がパッケージングされた紙の新聞は衰退傾向にあるので、ラインニュースのヘッドラインで同じことをやってもいいかも。

 

セレンディピティ

 さて、本書のタイトルにもある「セレンディピティ」とはどういった意味なのだろう。答えは「思いがけないことを発見する能力」のことである。イギリスの作家をるポールの造語であるらしく、「セレンディップと3人の王子」という御伽噺が元らしい。セレンディップ、今のセイロンが語源とはなんともお洒落な言葉である。使っていこう、セレンディピティ

 

飲んで忘れる

 人間の脳に「忘れる」ことは重要だ。情報は取り入れることも大事だが、同じくらい整理も大事だ。スポーツをバリバリやりながら成績がいい人がいるのはこのためである。適度に「知識供給」から離れることで、いい具合に勉学と距離がおける。その間に脳は知識の片付けをする。

 スポーツに限らず睡眠や散歩もこの観点から脳によろしい。酒を飲んで記憶を飛ばすのも、というのはいささか暴論な気がしないでもないが、とにかく忘れるのはいい。たくさん酒を飲んで記憶を飛ばしても「脳のため」と思って開き直ってしまおう。

 

おわりに

 自分はまだまだ外山先生の言う「乱読」には到達できていないし、「セレンディピティ」も獲得できていない。けれど、これからも読書は続けよう。いくら忘れてしまっても、きっと糧になる。