日本語作文術
日本語作文術
伝わる文章を書くために
はじめに
何度も記事を書いていると、定期的に「文章術」系の本を読みたくなる。それはもちろん文章力を向上させるためである。だが一方で、内容をみて「当たり前だなあ」と思う部分が多ければ、自分の成長も実感できるからだ。
そんなわけで、今回は2ヶ月ぶりの文章術本「日本語作文術 伝わる文章を書くために」野内亮三著(中高新書)を読んだ。
全体をみて
当然だけど、この手の本を書く人って本当に文章がお上手ですよね。固めの言い回しなのに内容がスルスル頭に入ってくる。
さて、野内さんが提唱する文章術はいわゆる「テクニック系」ではなく、「構造理解」を軸としたもののように思う。日本語を「英語のように」学習することで、きちんと日本語のルールを理解し、表現する。そのために必要なことは暗記する。そんな文章術は小手先のテクニックのように即効性は決して高くないけれど、じわじわと身になってくるはずだ。
10年前に出版されながら、まだまだ色あせない本書について、章ごとにみていく。
Ⅰ 作文術の心得 短文道場
「作文に独創は必要ない、使い古された言い回しを上手に使いこなせればいい」
これが作者のスタンスである。そのためには多くの表現を学び、それらを「借りて」文章を作ることが肝要である。常套句もどんと来い、と言うわけだ。例えば「懸命に頑張る」と言うようなことを表現したければ、「精を出す」と言い換えた方がすんなり読み手の頭に入るように、定番の表現は堅実な活躍をする。
それから日本語のルールについて。諸言語に比べてそれほどルールが厳しくなく、流動的に見える日本語にも、2つの確固たるルールがあるそう。
①名詞・動詞・形容詞・形容動詞などの述語を文末に置く。
②修飾語が被修飾語の前に置かれる。
どちらも日本語ネイティブなら当然のようにやっているが、改めて言われると納得する。英語では後置修飾がよくされるしね。上記2つに加え、著者が発見した「絶対でない」が読みやすくするルールもある。
③ 文節は長い順に並べる
例えば移動可能な意味の塊がいくつかある時、長いものから並べると「伝わりやすい」文になるそう。「友人達と・先週の日曜日に・桜の名所として知られる吉野を・訪れた」という文章は、「桜の名所として知られる吉野を、先週の日曜日に、友人達と訪れた」の方が読みやすい。
最後に「が」と「は」の使い分け。これは多くの場所でたびたび取り上げられる上、決着がついていない。だが、「は」を「対象物の中から1つを取り立てて区別するときに」、「が」を「いくつかの対象物から1つを取り上げ、他を排除するときに」使うという意味では一応の了解をみているようだ。これは以前読んだ「日本語は映像的である」にも出てきた話題だ。
この使い分けが命運を分ける場面もある。例えば会社でミスをやらかし、取引先に謝利にいくような場面。課長が「誰も行かないなら俺がいくぞ」と言えば、おそらく部下は「いいえ、私が行きます」となる。一方「俺はいくぞ」と言うと部下は「私も行きます」となる。「が」は他を排除する効果があるので、自ずと動作主がひとりに限定される。そのためこのような場面で使うと「誰か一人が行く」という暗黙の了解を作れる。もしあなたが上の立場で、謝罪になど行きたくないが役職上意思表明をしなくてはならないとき、ぜひ「が」を使おう。
Ⅱ 文をまとめる 段落道場
ここではひたすらに「段落分け」の極意を教えてくれる。著者は口を酸っぱくして「中核文」の大切さを説く。段落は1つの「中核文」(トピックセンテンス)とそれを補う「補強文」から構成し、なるべく中核文を先頭に置くと良い文章ができるそう。先に結論を述べることで、その後の論理展開が乱れにくいためである。
例えば枕草子はその際たる例で、「春はあけぼの〜 夏は夜〜 秋は夕暮〜 冬はつとめて〜」と見事にトピックセンテンスから始まっている。
Ⅲ 段落を組み立てる 論証道場
論証には2つのタイプがある。演繹法と帰納法である。前者は公知の法則を事実に当てはめて論を立てるやり方、後者はデータを積み重ねて共通項を見出すやり方である。
どちらを用いて文章を組み立てても良いが、面白いアイディアがあるときは前者、データが豊富にあるときは後者、と使い分けると良いそう。
Ⅳ 定型表現を使いこなす 日本語語彙道場
ここでは著者が集めた様々な提携表現が紹介される。使ってみたいものをピックアップして紹介したい。
とうとう ほとほと
・慣用句
生き馬の目を抜く 片棒を担ぐ 鬼でも蛇でも来い 尻馬に乗る
二進も三進も行かない 筆舌に尽くし難い 身も蓋もない 人口に膾炙する
清濁合わせ飲む
おわりに
紹介した以外にも、「和文和訳」のやり方は日本語を英語にするときに有用な方法であると思ったし、「舵取り表現」も覚えておけば便利そうだった。まずは覚える、そして使う。身も蓋もない言い方をすれば、文章に創造性は必要ないのだ。