森の雑記

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日本語は映像的である 

日本語は映像的である

 

はじめに

 新曜社発行、熊谷高幸さん著作の本「日本語は映像的である 心理学から見えてくる日本語のしくみ」を読んだ。読むのは2度目だ。これまで生きてきて様々な新書に触れてきたけれど、こと大学生期間に限って、一番印象に残ったのが本書である。就職活動でも「読んで面白かった本は何ですか」と聞かれた時には、森見登美彦先生の「熱帯」とともにこの本をあげる準備をしていたほどだ。さておき、こうして読んだコンテンツを書き留めるブログを始めたので、せっかくだからこの本もまとめておこうと思う。

 全体の説明は本を読んでいただければわかると思うので、ここでは特に気に入ったところとその解釈を書いていく。

 

全体をみて

 筆者は発達心理学の専門家である。その経験から、日本語を「映像的」な言語だと結論づけ、理由として「三項関係」に基づいた日本語特有の「共同注視」をあげ、様々な言語的な現象を説明する。これがこの本の概要である。

 とはいえ、三項関係も共同注視も何のことかよくわからない。1章ではこの二つの説明に頁が割かれる。以下、1章の概要と、その後の章で面白かったところ。

 

三項関係と共同注視

 三項関係とは、発達心理学の現場で用いられていた概念である。コミュニケーションに参戦するプレーヤーを①話し手 ②聞き手 ③共有映像 の三項目に分けるモノだ。共有映像は、①と②の会話で、お互いがみているモノ、捉えているものを指す。

 例えば以下の会話、

A「あそこに噴水があるね」 B「本当だ」

においては、A・Bが①及び②、噴水が③となる。

 そして、AとBが二人一緒に共通のものをみているこの状況のことを「共同注視」と筆者は名付けるのだ。

 日本語は、コミュニケーション時にこの「共同注視」を非常に重要視する言語である。言い換えれば、会話の参画者が同じ景色を一緒に見ることを前提とした言語構造であるそう。その理由について、英語と日本語における指示語の性質の違いや、英語圏、日本人の各発達障害を持つ子供に、同じ認知言語的テストをするとミスの種類が全く異なることなどがあげられる。理由の説明を読むとわかるけれど、なるほど、発達心理学ならではの視点である。

 

日本語と英語の違い

 日本語はコミュニケーションの際、共同で一つの映像を見ることに特化した言語であるのに対し、英語は会話をする人すらも映像に取り込まれる「外部視点」を持つ言語だ、という筆者の主張がある。これには大いに納得できる。

 日本語が主語や目的語など多くの言葉が省略できるのは、聞き手と話し手の間に「共通の景色」があることを前提にしているからである。一方英語は絶対的な外部の視点が会話をみているような想定をしているので、多くの場合で主語や目的語が省略されない。そのほか、数多くの日英比較に言及する本書。7章にいたってはまるまる日本語と英語を比較する章になる。日英比較は本書のサブディッシュである。

 こういった説明を見て、これは完全に私見だけれど、やっぱり英語圏は「神」の視点を常に持っている言語なのかもしれないな、と思った。ごくプライベートに取り交わされる日本語を使う僕らからすると、常に「神」に見られる英語はどこかフォーマルに感じられる。宗教的な違いはきっと言語にも影響を及ぼすのだろう。

 

文脈指示

 多くの日本人は当然のように指示語を使いこなす。外国語の話者が特に困るのは、指示語の中でも、目の前のものを指し示す際の「現場指示」ではなく、会話中の「文脈指示」である。

 例えばこんな会話

A「Cさんが昨日バイト先に来たよ。この人はB君を知っているようだった。」

B「その人、どこのCさんですか?」

A「テニスサークルの」

B「ああ、あの人か」

数往復のやりとりに、3回も指示語が出てくる。また、Cさんは二人の眼前にいる訳ではなく、あくまで会話中の人物だ。この時の指示語を「文脈指示」という。

 この文脈指示では、①情報が自分のもとにある時は「この」を使う ②相手のもとにある情報を指す時は「その」を使う ③お互いが共有する情報(共同注視する)には「あの」を使う という使い分けがなされているそう。

 確かに、弊ブログでは「この」「これ」「こうして」など、「こ」系の指示語が頻出する。これは自らが得た情報を他者に発信するという性質のためだろう。(この説明にもたくさん指示語を使ってしまった)何と奥深い文脈指示。

 

おわりに

 「日本人は結論を先に言わない」的問題提起が始まってから久しいけれど、その原因は言語的な部分にもあるのだろう。お互いが映像を共有するためには、その背景や状況をまず伝える必要がある。そのため、結論より先に前提条件を詳しく話しがちになるのだと思う。

 しかし、日本語のこうした特徴にはいいところも悪いところもある。本を紹介するブログが、「『〇〇』言語の本 面白い」で始まっていたら、きっと誰も読む気にならない。こと日本人にとっては。そのため多くの人が導入を工夫するし、読んだ理由とか、本のレイアウトとかに言及する。

 そもそも、本の感想で結論を先に書くとしたら、どの本も「面白い」になってしまう。つまらない本なんて一冊もないためである。