森の雑記

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子どもの人権をまもるために

子どもの人権をまもるために

 

はじめに

 ついこの間まで高校生だったような気もするが、そろそろ自分を子供だと認識するのが難しい年齢になった。就活を経て社会人を目前にすると、いやでも「大人」になっていると感じてしまう。

 大人を自認することは、「子供」を自分と別の存在だと考えることにもつながる。年下の後輩や公園で遊ぶ小学生を見て、庇護の対象に思うようになったのだ。これまでは守られる側だったけれど。

 木村草太編「子どもの人権をまもるために」(晶文社)は、そんな「子ども」に目を向け、どうやったら彼・彼女らが不自由なく育つかを熟慮する1冊である。

 

全体をみて

 木村先生が各分野の最前線で働く16人方々のお話を編集している。それぞれの論は①家庭②学校③法律・制度の3パートに分けられており、具体的かつ考えさせられる。もちろん暗い話も多い。

 300頁を超える分厚い本ではあるが、各人の章はそこまで長くはないため、細切れに少しづつ読むこともできるから、意外とすんなり読めるのではないか。

 以下、各部記憶に残っている話について。

 

第1部 家庭

 家庭事情が芳しくない子どもに寄り添う方々の話が多い章。かなり過酷な現場で働く人が多く、提示される例も目を覆いたくなるものが多い。自分の家庭がいかに恵まれていたかをひしひしと感じた。

 特に印象的なのが宮田雄吾さんの第1章。宮田さんは精神科医であり、虐待を受ける子どもと関わってきた。

 「虐待を行い続けているのは子ども自身」と彼は言う。これは虐待をする親から子を引き離し、保護した後に施設で様々な問題行動を起こし続ける子どもを評した言葉である。かつて安全に生きることを剥奪された子は、せっかく入った施設の中で物を壊したり職員を傷つけたり、今度は逆に安全を脅かす側になる。また、食事を取れなかったり施設を抜け出してアプリで出会いを求めたり、僕らからすれば「なぜそんなことを」と思うような行動も取る。

 育った環境が歪なせいか、真っ当な環境に適応し難い彼らに、僕たちは何ができるだろう。宮田さんは「極論すると3つ」のことができると言う。①安全な生活環境を保ち続ける。②問題行動の背景は受け入れつつ。社会の枠組みで許される範囲を明示し、少しでも適応できるように支援する。③その子の未来に期待し続ける。①と②に関しては技術的と言うか、訓練さえ受ければなんとかできそうであるが、③はきっと難しい。全く予想外の行動に出る子を相手に、それでも希望を持ち続けるのは並大抵のことじゃない。それでも彼・彼女らにはそれが必要なのだ。③を推すことに「根拠はない」と宮田さんは言い切る。さらに言えば未来は不確定な物だから、期待をもつにせよそこにも根拠はない。でもだからこそ期待は、厳しいバックボーンをもつ彼らの新たな背骨になってくれるんじゃないか。

 

第2部 学校

 ブラック校則や組体操など、近年様々な場面で学校教育の不自然さが顕在化している。教育の場で子どもはどんな苦痛に晒されるのだろう。

 まずは名古屋大学で教育社会学を研究する内田良さんの話から。

 学校の道徳授業において教師は「敬愛されるべき対象として」提示される。したがって道徳の教科書ではいじめやトラブルが題材となることはあっても、体罰が題材になることはない。教師は「望ましい」振る舞いをする主体だと決まっているのだ。

 そんな教師だが時にその「指導」が行きすぎることもある。大貫隆志さんはかつて息子が教師の指導をきっかけに自殺、以後「『指導死』親の会」の共同代表として活動している。子どもにとって「学校」や「教師」は絶対的な価値観である。大人から見れば些細なことに思えても、2つがもたらす影響はあまりに大きい。そしてそれは、子どもの「自殺」という最悪な結果につながることもある。

 小学生の頃熱血風の担任に当たって酷い目にあったことを今でも思い出します。

 それから大原榮子さんが行う、ボランティア大学生と不登校児をマッチングする「メンタルフレンド」活動も素晴らしいと思った。やってみたかったなあ。

 

第3部 法律・制度

 やや固めのパート。ソフト面でなくハード面で何ができるか。

 村田和木さんの「里親制度」論、南和行さんの「LGBT」論、どちらの分野にもまだまだ改善の余地が大きい。権利の主体である子どもに、制度の面からどのようなアプローチができるかを考え続けねばなるまい。

 

おわりに

 改めて自分の育った家庭や、中高の環境がいかに恵まれていたかを認識した。自分はこれが普通だと思っていて、そうでない環境を「異常」だと認識していたが、ある意味それは正しいのかもしれない。というのも、より高い水準の方を「普通」だと捉え、全ての子供が「普通に」このような環境にアクセスできるようにしないといけないからだ。恵まれた環境を普通の環境にする、このことができて初めて「子どもの人権を守っている」と言えるのではないか。