スルメを見てイカがわかるか!
スルメを見てイカがわかるか!
はじめに
先日帰省したときに、養老孟司・茂木健一郎著「スルメを見てイカがわかるか!」(角川書店)を実家の本棚から拝借した。タイトルに惹かれて高校生だか中学生だかの頃に1度読もうとしたのだが、内容が全然頭に入ってこなくてやめた本である。
あの頃からはだいぶ歳も食ったので、もう読めるだろうと思い再び手をつけた次第。
全体をみて
人は成長するものだ。当時読めなかった本書だが、今は面白く読むことができた。固有名詞というか、お二人が独自に名付けた言葉や、彼らの業界では一般的であろう単語が度々出現するので、多少つまづくことはあれど、僕らにはスマホがある。たいていの語は一度説明されてから出てくるけれど、逐一遡るのも面倒なのでiphoneをぽちぽちしながら読んだ。人は成長すると手の抜き方を覚える。
以下、各章について。
第一章 人間にとって、言葉とはなにか
養老さんが単独で担当する章。この章はだいぶ読みやすい。
日本に生まれた僕たちは日本語を「覚える」。日本語は脳内で創造されるのではなく、生まれたときからすでに「外」にある。だから「覚える」のは日本語に脳をアジャストすることと同義である。これは数学のルールを覚えるのと似ている。「2A−A」という問題の「数学的」答えは「A」だけれど、数学的でない捉え方で考えれば「2」が答えになっても不自然ではない。
言葉ってなんだろう、みたいなことを真剣に考えたことはないけれどこのアイディアには納得できる。言葉はそのまま思考になる。
第二章 意識のはたらき
この章から第四章までは2人の対談が収録される。
面白かったのは「言葉は変化し難い」ところ。「リンゴ」という言葉はあの赤い果実をさす語だ。もしあなたがある果実を見て「これはリンゴじゃない」と思ったとしよう。しかし周囲はそれを「リンゴ」だと認識している。このときあなたは目の前にある果実に新しい名前をつけるだろうか。
おそらく大半の人は「あ、これはリンゴなんだな」と思い、自分の意識の方を変える。つまりみんなと同じ「リンゴ」に脳の方をチャンネルする。これが「言葉は変え難い」ということだ。言葉は同一性(他人と同じものを認識する)である。
第三章 原理主義を超えて
三章が一番面白い。ダーウィニズムや資本主義が他のイデオロギーを飲み込んでいく理由、「原理主義」の危うさなど、だいぶ抽象的に思える話が続く。でもわかりやすい。
確定申告をする個人商店のおばあさんのエピソードが印象的。「システムが嘘を強制する」。
第四章 手入れの思想
しばしば自然保護のモチーフになる「日本の里山」。海外で「環境保全」となれば、ある区域を「保護地区」なんかに指定し、一切人のてが入るのを禁止することがある。ゴミは持ち帰らないといけないし(当たり前だけど)、立ち入ることはできてもとにかく人の痕跡を残すことは許されない。しかし日本では人と山が関わりながら生態系を維持していたりする。
人間だって「環境」の一部なのに、「自然」から人間を切り離すやり方は、よくいう「自然を支配する」発想が前提にあるのかもしれない。
それからアメリカの「暴力性」についての記述も面白かった。BLMを予言しているかのよう。
第五章 心をたがやす方法
最後は茂木さん単独の章。「脳は心を生み出す臓器である」と芸術的な一文から始まる。外国語習得に必要なのは「心も動かす」ことだという話が良い。
いくら英単語を覚えても、なかなかその単語を実感することはない。だって日本語が脳内言語なのだから、他人に嫌なことをされれば「怒るぞ」と思うのであって、「angry」とは思わないでしょう。逆に言えば自分の心が動きそうなときに、日本語ではなく外国語を使ってみれば、脳に外国語のチャンネルが形成される余地が生まれる。
おわりに
茂木さんが担当するあとがきに、「文章を書いて初めて自分の言いたいことがわかる」というような話があった。すごく共感できる。
ここの記事は、基本的に読書中とったメモを見ながら書くのだけれど、メモには好きなフレーズや下と頁数しか書いていない。だからメモを見ても自分の感想はわからない。しかしそのメモを元にとにかくなにやら書き始めると「これを言おうかな」みたいな部分が出てくる。
「まずは文章にしてみる」というのを、残りどれぐらいできるかわからないけれど楽しもうと思った。