森の雑記

本・映画・音楽の感想

アラビアンナイトを楽しむために

アラビアンナイトを楽しむために

 

はじめに

 ディズニー映画で一番好きなのは「アラジンと魔法のランプ」だ。去年公開された実写版は3度も見に行った。あの世界の香り立つ感じというか、熱気というか、そんな部分にはどこか惹かれるものがある。いつか実際に足を運びたい。

 その「アラジン」は「アラビアンナイト(=千夜一夜物語)」でシャーラザッドが語るお話の1つである。他には「シンドバッド」「アリババ」などがあり、いずれも有名だ。しかしこれらはシャーラザッドが語ったごく一部でしかない。

 今回読んだ阿刀田高著「アラビアンナイトを楽しむために」(新潮文庫)は千夜一夜の中でも、それほど有名でない話を紹介してくれる本である。

 

全体をみて

 本書で著者はアラビアンナイトから都合12話を紹介する。もちろんやみくもにあらすじを書き並べるようなことはしない。著者の近況や世相などを枕に、徐々に説話へと論が向くので、非常に読みやすい。いわば超優秀なバスガイドがついた千夜一夜ツアーである。こうしたツアーではガイドさんのこぼれ話が意外と印象に残るものだが、本書も例外ではない。1つの説話を語りながら、時々脱線していくのも醍醐味である。

 以下、好きな説話について。

 

右手を呪われた男たち

 シャーラザッドが24夜目に語ったのは、遠い支那の国のお話。ここでいう支那はおそらく中国のことではなく、「どこか遠くにある国」くらいの意味合いだそう。

 背骨の不自由な男をひょんなことで殺してしまった仕立て屋の夫婦は、その夜遺体を医者の家前に放置する。翌朝遺体に気づかなかった医者が男を蹴り上げてしまい、自分が殺したと勘違い。彼もまた隣の家、料理番の男のもとに遺体を捨て、、、と行った具合に、計4組が男に関わることに。こんな感じの話を星新一ショートショートで見たことがある。

 ややあって裁判の結果、「面白い話をしたら全員無罪」となることが決まり、順に各自とっておきの話を始める。

 この「入れ子」構造こそアラビアンナイトの醍醐味である。シャーラザッドは少しでも多く生きながらえるためにこの構成をとったのかもしれない。

 

シャーラザッドの正体は

 ここで語られるのは、魔女マイムナーと魔神ダーナッシュにそれぞれ見初められた、王子カマル・アル・ザマンとブドゥル姫の話。

 運命付けられた2人が険しい道を進む「千夜一夜」定番の流れである。愛の描写はなんとも艶かしく鮮やか。読んでいて恥ずかしくなってしまうほど直球である。ようやく2人が再会した際ブドゥル姫が言う「ずいぶんと忘れっぽいかただこと」セリフには痺れること間違いなし。

 

紺家と床屋の物語

 怠け者の染め屋と勤勉な床屋が旅に出る話。千夜一夜版「アリとキリギリス」といったところか。結局勝つのは勤勉な方。

 ここでは著者の与太話が面白い。イギリスの随筆家ロバート・リンドは「やらなければいけない仕事が山ほどあるのに」「ぐずぐず伸ば」す「瞬間ほど楽しいものはない」と書いたらしい。阿刀田さんもこれに同意し、「屈折した充実感」と言い換える。本書も結局締め切りを伸ばしたようで、この場で編集者さんに謝罪をする。他所でやってください。もっとやってください。

 

絵の中の美姫 

 この記事最後に紹介するのは、絵に描かれた美しい女性に惚れ、彼女を探し求める富豪の話。男嫌いで有名な姫に会うべく困難を知恵(と金)で乗り越える男は、姫が「呪い」にかかっていることを知る。最後は2人でその呪いをといてハッピーエンド、とそれこそディズニーにありそうな物語である。

 この章で面白かったのは「インシャラー」という言葉。これは「なにごとも、神様の思召し」みたいな意味らしい。日本の商社マンがアラブで商売をするときはこの言葉に苦労するようで、契約が履行されなくとも、納期が遅れても「インシャラー」。「しょうがないよね、」みたいに使わないで欲しい。

 何かがうまくいかないとき、心のなかで唱えてみよう。インシャラー。

 

おわりに

 入れ子構造、たくさんの補遺を持つ千夜一夜物語は、数多の物語を飲み込み、淘汰することで現在に至る。

 森見登美彦先生は「アラビアン・ナイト」をモチーフに「熱帯」を書いた。本家に優とも劣らぬ入れ子構造を持った素晴らしい作品であったが、その「熱帯」ですら千夜一夜のうちの1つにすぎないのかもしれない。