アマテラスの誕生 古代王権の源流を探る
アマテラスの誕生
古代王権の源流を探る
はじめに
民俗学の本について書いた前回に引き続き、今回は神話の本。こういう記事が連続するとなんだか怪しく思われる方もいるかもしれないが、好きなんです、神話とか伝承とか。
初めて古事記を読んだのは、確か中学生の時だったように思う。http://www.script1.sakura.ne.jp/essay.html
当時の僕は、このサイトで書かれた日本神話についてのエッセイを繰り返し読んでいた。すごく面白いんで是非読んで欲しい。読んで以来、民間伝承や日本の神々についての話は興味の対象である。大学生になったら文学部で古事記について勉強したいとさえ思っていた。結局大学では別のことを勉強するようになったけれど。今でもその興味は尽きていないので、ちょくちょくこうした本を読んでいる。
さて、今回は岩波書店発行、溝口睦子「アマテラスの誕生 古代王権の源流を探る」について。
全体をみて
本書ではかつて皇祖神だった「タカミムスヒ」がいかにして忘れられたか、いかにしてアマテラスが最高神となったかなど、古代において最高神が「変更」された理由を探るものである。こう書くと固い感じがするが、著者は小難しい部分に深入りしすぎないよう、とても慎重に論を進めてくれる。時々まとめや反復をしてくれるのも親切だ。
以下、各章について。
第1章 天孫降臨神話はいつ、どこから来たか
オオクニヌシが治める地上世界にアマテラスが子孫を遣わし、オオクニヌシに国を譲らせるのが「天孫降臨」と「国譲り」の物語。このとても有名な神話の成立要因を探る。
著者の書くことをごく大雑把にまとめると、その理由は「4〜5世紀ごろ、朝鮮半島や大陸の脅威を感じた大王政権が権力を一極集中させるべく、北方ユーラシア的王権思想を輸入した」と言えそうだ。
これまで古事記を読む際に、海外の状況を考えたことがなかった自分からすれば、これは驚くべき視点だ。というか、僕の狭い脳では「日本古来」の神話を読んで「日本らしさ」みたいなものを考えることはあっても、その成立時点における海外の影響など考える余地がなかった。しかし、熊楠も書いていたが、多くの伝承は各地で共通が見られるものだ。であれば、日本神話の成立にユーラシアっぽさが入っていてもなんら不思議はない。
第2章 タカミムスヒの登場
我々一般人の知る古事記に限っていえば、タカミムスヒは存在感がものすごく薄い。というか存在すら知らない人も多いのではないか。僕だって例に漏れず、ここ数ヶ月でいろいろ本を読んでかの存在を知った。しかし、学者の中で「皇祖神」つまり天皇の祖先たる神は「タカミムスヒ」であるということに異論はほとんどないそう。これは現在僕たちがアマテラスに持っている認識とズレる。
著者が言うには、タカミムスヒは前章の思想輸入に際して同時に輸入された神で、土着のものではないそう。その証拠として神の名前や存在性に関する北方との共通が挙げられる。先に始祖神的に定着したのはタカミムスヒの方なのだ。
第3章 アマテラスの生まれた世界
ではどうして古事記や我々の認識では、アマテラスが最高神的に認識されているのだろうか。3章からはこの問題に迫っていく。
僕たちに馴染み深い「イザナギイザナミ」を視点とする神話は日本古来のものである。そして、「倭」の国では土着のイザナギ系神話が流布していたが、その中で「アマテラス」という存在はそこまで大きなものではなかったらしい。差し詰め地方有力神といったところか。有名なウケヒや天岩屋の物語のおいても、アマテラスはスサノヲの横暴に辟易するばかりであるし、とても最高神らしいとは言えない。と筆者は指摘する。そこから、この物語の真の主役はスサノヲではないか?とも書く。
つまり、神話を見る限りアマテラスの行動はおおよそ最高神と呼べるものではなく、それを理由にやっぱり元は最高神として扱われていなかったのでは?というわけだ。
確かにアマテラスは優しすぎる、そして精神的に脆すぎる、と僕も思う。
この章は日本古来の神話が持つ海洋的世界観にも触れられる。面白いので是非ご一読を。
第4章 ヤマト王権時代のアマテラス
前章と同様の話題について。アマテラスってやっぱり巨大に強い神として描かれていないよね。みたいな。
第5章 国家神アマテラスの誕生
本書の核心。なぜ最高神はタカミムスヒからアマテラスに変更されたかについて。
ここで詳細に書くには難しいが、結局は「天智天皇ー天武天皇の改革・国の統治に利用する神としてアマテラスが最も都合がいい」と言えるのかもしれない。太陽の女神であり、土着の神であり、多くの人に馴染み深い彼女は時の権力者から見れば格好の存在だったのだ。著者の言うように、やっぱり最高神を祀る神社が京でなく伊勢にあるのは変な感じがするし、古事記のアマテラスはなんだか頼りない。そんな神様は、大化改新から始まる時代のうねりに飲み込まれるようにして、気づけば国家神の玉座に座らされたのだ。
この本を読むとなんだかアマテラスが不憫にも思える。
おわりに
著者はあとがきで、「私の願いはこの神が、今度こそ、誕生した時の素朴で大らかな太陽神に戻って、少し頼りないところはあるが、あくまで平和の女神として、偏狭なナショナリズムなどに振り回されずに、彼女の好きなどこまでも続く広い海と広い空を住居に、豊かな生命の輝きを見守る神としてあり続けていて欲しいということである。」と書く。(p232より引用)
この言葉から伝わる著者から彼女や神話への愛は本当に素敵だと思う。どんなに頼りなくとも物語の登場人(神)物としてのアマテラスはやっぱり魅力的だし、多くのコンテンツで題材にされる。本書はこれほどまでに馴染み深い神と、一方で忘れられた神、両方を感じられる素晴らしい読み物だった。