森の雑記

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短編小説講義

短編小説講義

増補版

 

はじめに

 筒井康隆といえば、星新一小松左京と並ぶ日本SF御三家の1人である。彼が原作を書いた映画「パプリカ」は独特な映像が気になる代物で、いつか観ようと思っている。ネットフリックスのマイリストに入りっぱなしであるが。

 そんな彼が「短編小説」 について語った本を見つけた。岩波新書発行、筒井康隆著「短編小説講義」である。彼の作品に触れたことがないのに本書を手を出すのは少々気が引けたが、とっても面白そうなので読んでみた。前回記事にした「記憶の盆をどり」の作者町田康とは偶然にも「康」つながりである。

 

全体を観て

 小説のあり方、現状などを分析するところから書かれた本書。異常なまでの短編信仰や「習い事化」する物語構成などに、著者は批判を行う。戯曲や詩から脱却する形でスタートした小説とは本来自由なものであり、決まった形式に縛られすぎることはない。特に我が国では芸道化しつつある「短編小説」にメスを入れるような1冊。

 たしか「13歳のハローワーク」だったかで、村上龍も行言っていたように、誰でもなれる「小説家」という職業だからこそ、そこには独自性や独創性がなくては光らないのかな、と思う。

 以下、筒井康隆が行った短編についての解説のうち、好きなものについて。

 

二十六人の男と一人の少女

 ゴーリキーが書いた短編。パン作りを行う囚人たちと、そこにパンを買いに来る1人の少女のお話。

 まず筒井氏はこの作品を「1人称複数」で書かれた珍しい小説だと言う。パンを作る囚人たちの人格が1つにまとめられているからだ。もちろん彼らに個性は描写されない。これを「必然に見せる」のが本作のすごいところ。普通こんな1人称複数の物語を読んだら違和感が残る。もしクラスメイト全員を1つの人格として捉えた学園小説なんてものがあったら、さぞかし奇妙だろう。しかし本作では少女を「信仰」する彼らが均質化されることへの違和感は全くない。むしろ全員がひとつであることに意味がある。

 こういう新たな書き方をするゴーリキーもさることながら、見抜く筒井氏も。また、1度だけ「バーウェル」という名前が出てくるところも、そこに必然性があるのが良い。信仰が薄れかかって集団が1つでなくなったことを暗示しているのだろう。

 

幻滅

 こちらは有名なトオマス・マンの短編。街中を往復し続ける男について。

 「社会経験がほとんどないまま小説を書いてしまうということが可能だろうか」と書き始められる解説は、まず「若い」書き手が生煮えの知識を使って小説を書くのがいかに難しいか、という問いを立てる。そして若書きながら良い作品を書くのはある種の「才能」だとも。

 トオマス・マンは間違いなくこの才能に恵まれた作家であろう。緻密な人間観察、誰もが経験する「あの感覚」を見つけ出して言語化するセンス、どちらも類稀なものだと筒井氏は評する。

 「最近は映画の見過ぎで、奇跡も珍しくなくなったね」はRADWIMPSトレモロ」に出てくる歌詞だが、若い時に小説を読みまくったトオマスもきっと同じ気持ちだったのだろう。

 

新たな短編小説に向けて

 都合8本の短編を解説した後、筒井氏が一息入れる、もとい総括を行う。ここまで解説された技法や凄みは、今やっても新鮮さがなく、もしかすると「パクリ」のレッテルを貼られるかもしれない。だからこそ「良い小説」なるものを書くには、これまで生まれたたくさんのテキストを読み、「飽き飽き」しなくてはならない。その時初めて新しい表現の扉を叩ける。

 傑作が生まれるには、ある種の内在律をどうにかして突破しなくてはいけない。

 

繁栄の昭和

 本書最後に解説されるのは、筒井康隆本人の短編である。ある法律事務所で働く男のお話。

 この解説は圧巻。本人の作というだけあって解説が圧倒的に詳しいし、「メタフィクション」を使った表現はさすがの一言。一文一文に意味があって、違和感にも意味があって、タイトルにも意味がある。これを短編の枠内で仕上げるのはまさに鬼の所業。

 こんな人が原作を書いた「パプリカ」早く観ないと。

 

おわりに

 「名作」と呼ばれる作品を読んでも案外つまらないことがある。でもそれはその作品の凄み、独自性に気づかないためであることは多い。「罪と罰」が良い例だろう。だから本書のように、作品の仕掛けや特異点を解説してもらえるのはありがたい。とても良い本でした。