森の雑記

本・映画・音楽の感想

記憶の盆をどり

記憶の盆をどり

 

はじめに

 先日読んだ「きげんのいいリス」は小説と呼ぶにはライト、かつ深すぎた。決して貶しているわけではなく、ものすごくいい本だったのだけれど。となるときちんと「ザ・小説」みたいなものを読んだのは色川武大「怪しい来客簿」まで遡る。実にひと月前である。

 そんなわけで久々に小説を読もうと思って、手当たり次第に探していたところ、町田康著「記憶の盆をどり」(講談社)にたどり着いた。謎めいたタイトルはどんな物語を象徴しているのだろう。

 

全体をみて

 長編小説かと思いきや短編集だった。そんな本書は2019年に出版されていて、けっこう新しい。

 著者の町田康は2000年に「きれぎれ」で芥川賞を受賞しているらしい。恥ずかしながら全く知らなかった。さらに著者は音楽活動もしているようだ。バンドの名前は「汝、我ガ民に非ズ」かっこよすぎるでしょ。

 各短編は基本的に不条理かつ突拍子もない設定が多く、オチの意図もけっこう考えさせられる。いわゆる「難しい」話と言っていいだろう。でも面白い。古風ながらふざけた文体は読んでいて飽きないし、散りばめられたモチーフはどれも含みがある。こういう小説は何度も読むとより味わいが深くなるというものだ。

 以下、好きな短編について。

 

山羊経

 借金をしたのち行方をくらました義行を追う惟安経高。彼の一人称をベースに物語は進んでいく。

 とにかくスピード感がすごい。惟安の脳内、思考がほとんどそのまま文章化されているので、時に脱線、時に意味不明になりながらも、話がぐんぐんと進んでいく。この物語のピークは惟安が死んだはずの父に会うところ。これはあくまで精神世界で会ったのか、それとも実際に会ったのだろうか。そしてその父は「大日如来だった」。もうここが面白すぎる。父と子の繰り広げる脱力の会話が本当にいい。ピーピングライフを見ているようだ。

 結局義行から借金を取り立てることはできず、なんだかよくわからない感じになって物語は終わる。物語の結末をそう解釈したら良いものか、ずっと考えてしまう。

 

百万円もらった男

 音楽の才能を百万円で売った男の話。もらった百万円が次第に減っていく様子はなんだか死へのカウントダウンを見ているよう。

 才能って一体なんだろうとか、お金のありがたみと儚さとか、一編に多くの示唆が盛り込まれている。売ってしまった才能、枯れてしまった才能は2度と取り戻せないが、後に残った荒地を耕すことはできる、と言われた主人公が最後に言い残す言葉がかっこいい。 

 誰でも自分の才能を信じたい。でもそんなものはなかなか見つからない。そんな状況で「百万円で才能を買う」と言われたら、あなたはどうしますか。

 

付喪神

 京都四条河原町が舞台のハイテンション妖怪大戦争

 ド派手なB級映画を見たかのような読後感。捨てられたモノに自我が生まれ、人間に復讐をしていく様子が面白い。カジュアルに人間が死ぬ。

 冒頭はモノたちの掛け合いが、後半にいくにつれて人間たちの呑気さが面白くなる。下請け、サステナブル、事なかれ主義など、社会風刺を折込みつつ物語として昇華する著者の腕に唸るばかり。

 付喪神が変形するにはどうしたらいいか、と聞かれた時に「鈴」が答えた「気合いだと思います」というセリフがかっこいい。

 

ずぶ濡れの邦彦

 「絶対に走らないこと」を条件に結婚した男の話。

 まあこの手の話って大体約束を破って終わるんだけど、この短編の魅力はオチじゃない。なぜ「走らないこと」を求めるか、それをどう納得するか、2人がそれを「不合理」と思いながらも無理やり論理立てていく様子を見るのが楽しいのだ。明らかに理不尽なことを無理に納得することは誰にでも経験があると思うけれど、それを文章で改めて見ると、いかにおかしなことかが理解できる。

 

記憶の盆をどり

 表題作。時々記憶が抜け落ちる男のお話。

 短編集を読んでいて表題作にたどり着いた時って謎の高揚感がないですか。アーティストのライブに行って超有名曲が演奏され始める瞬間みたいな。「ついにきた!』的な。ちょくちょく表題作が一発目にくる短編集もあるけれど、あれはあれでいい。

 「唯一の合理的な説明は、女が美しかったから」というセリフはなんだか真理をついているような気がした。

 

おわりに 

 この本は手元に来てから3ヶ月くらい経っていたので、来歴を忘れていた。元は岸本佐知子さんの選書にあった「くっすん大黒」を読もうと思ったら図書館になくて、仕方なく同じ著者の別作品を取り寄せたのだった。「記憶の盆をどり」を読んで自分の抜け落ちていた記憶を思い出すという、なんとも不思議な経験でした。