森の雑記

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新釈 走れメロス 他四篇

新釈 走れメロス 他四篇

 

はじめに

 太宰治走れメロス」の物語を全く知らないという人はここ日本にいるまい。さらにいえば、中島敦山月記」も多くの人の知るところであろう。両者は様々な教育課程においての国語の教科書に取り上げられてきたためである。

 2つの作品に共通しているのは、文量が短いことだ。最小限の言葉を持ってきちんとオチがありながらも、読み応えのある物語であり、さらには著名な文豪の作とあらば、誰が編者であっても教科書に収録したくなる。言葉を尽くしすぎたが故に、かえって読み応えも何もないブログを書いてしまいがちな自分は、間違いなく見習うべき作品だ。

 森見登美彦先生の「新釈 走れメロス他四篇」はそんな文豪たちの作品を森見流にリブートした短編集である。当然、舞台は京都、主人公は腐れ大学生。

 

全体を見て

 「あとがき」で森見先生ご本人も言っておられるが、こうした名作をわざわざ書き直すのには少しの批判もつきまとう。しかし、メロスにせよ山月記にせよ、そもそも古代ギリシャや唐代の逸話をリメイクしたものである。であれば、物語の再構成に何を躊躇うことがあろう。

 さて、この本の本編に関してだが、やっぱりリブート的作品なので、元の作品を知っている方が面白く読める。メロスや山月記はともかく、森鴎外「百物語」や坂口安吾桜の森の満開の下」の2作は僕も読んだことがなかった。いずれも青空文庫で読めるので、この本に手を伸ばす前に目を通すことをお勧めしたい。

 また、自称あとがき・解説マニアの僕としては、角川文庫版の千野帽子先生解説に触れておきたい。旅の中で「山月記」から「百物語」までの作品に順々出会っていくスタイルの文章は、もはや1つの短編である。

 以下、「走れメロス」と「山月記」の感想を書く。

 

山月記

 あいも変わらず森見節全開の冒頭、「桃色遊戯」に興じることなく、文筆に勤しむ大学生、齋藤秀太郎が留年を重ねていく様子が描かれる。大器とただの阿呆を見分けるのは容易ではない。そして彼の行方が知れなくなってから数年、警察官夏目は天狗が山でいたづらをする、という不可解な通報を聞き、大文字山へ乗り込む。そこで、天狗となったかつての先輩に出会うことになる。

ひょっとすると齋藤さんではないですか?

 元の山月記と森見山月記で大きく違うのは、「袁傪」のあり方である。原作で袁傪は李徴の数少ない友人として描かれるが、森見作の夏目は齋藤と仲の良かった同期の「後輩」である。つまり、原作でいうところの李徴に出会うのは袁傪ではなく、袁傪の部下にあたる人物になる。この転換が意味するところは何だろう。

 山月記を語る上で欠かせないのは、「なにゆえ李徴は虎になったか」という疑問だ。中島敦は「大きすぎた自尊心、それと裏腹に、才能の欠如を認める臆病さ」を描写するところだ。しかし、そもそもこの理由も唐の逸話からは改変がなされている。元々は不倫が原因だったはずだ。であれば、森見山月記において齋藤が天狗になった理由にも、若干の改変が見られる可能性がある。

 そこで、袁傪(夏目)の役割変化と、虎化(天狗化)の理由を合わせて考えてみる。森見山月記において、本来袁傪の役割を果たすはずだった永田は、齋藤に焦がれていた女性と紆余曲折の末結婚することになった。齋藤は自分を思ってくれる人物と唯一の友を手放すことになるのだ。これによって、齋藤の創作活動はより一層孤独を極めたことだろう。

 この「孤独」こそが森見山月記で齋藤が天狗化した大きな理由だと、僕は思う。森見先生は、唐代原作の「恋愛(不倫)」による「虎化」の要素を再び持ち出すことで、中島の「自尊心・臆病」を薄めて「孤独」を際立たせたのだ。永田が再び齋藤に顔を見せず、夏目が相見えるのも孤独をより一層強調する。

 孤独ながらも力強くあろうとする文筆家の心持ちを深く理解する森見先生だからこそ、こうした形でリバイバルがなされたのかも知れない。

 

走れメロス

 こちらはより阿呆な大学生、芽野史郎と芹名雄一の物語である。ネーミングを微妙に寄せている時点で笑ってしまう。大学に行かなくなって久しい芽野が久々に思い立って講義に出るところから短編は始まる。が、大学に到着したはいいものの、その日は学園祭の日。せっかくの向学心を台無しにされて怒りながらも、りんご飴を食べつつ構内を散策。所属するサークル、おなじみ「詭弁論部」の部室が、こちらもおなじみ「図書館警察」に取り上げられたことを知り、芽野は憤慨する。

必ずかの邪智暴虐の長官を凹ませねばならぬ

その後ややあって、芽野は長官に捕まり、「ブリーフ一丁で『美しく青きドナウ』を踊る」ことを命じられる。彼は姉の結婚式を理由に親友芹名をおいて走り出す。かわりに捕まった芹名が言う。

あいつに姉はいないよ

 ここまで書いただけで、いかに森見先生がこの作品を楽しんで書いているかお分かりいただけるだろう。転がり落ちていくように勢いのある文章は太宰以上である。決して芽野がかえってこないことを信じる芹名、逃げたものを捕まえようと躍起になる長官、自らを信じる芹名のため逃亡を続ける芽野。三者があれやこれやと騒ぎ立てるのは本当に爽快だ。

 友情の本質が相手を信じるところにあるのだとすれば、芽野の腐れぶりを信じる芹名と、芹名が自らを「信じないこと」を信じる芽野の間には確かに固く腐った友情があるのだろう。

 最後は3人でブリーフ踊りをする。どうしてこうなった。

 

おわりに

 ここまで特に有名な2作を紹介したが、他の2作もとても面白いので是非読んでほしい。芥川龍之介「藪の中」のリメイクはまさに極上の一品である。本当に面白いのか疑ったあなた。人の心を疑うのは最も恥ずべき悪徳である。