森の雑記

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ブログのすゝめ

ブログのすゝめ

 

はじめに

 この間の投稿で記事数が50を突破した。当面の目標を「100日で記事50本」に定めて始めたブログだが、実に92日で目標に到達できた。実に喜ばしい。

 これからしばらくは忙しい日々が続くので、これまでの頻度で更新することはできないけれど、マイペースに書いていこうと思う次第である。

 今日はそんな「ブログ」を始めた動機と、ブログっていいよね、という話。

 

ブログのすゝめ

 

 皆さんは、自分の書いた文章(800字以上)を人に見てもらい、さらに評価を受けた経験がどれくらいあるだろうか。この質問に、高校の頃受けた小論文模試を思い出す人もいれば、もっと遡って小中学校の読書感想文を思い出す人もいるかもしれない。大学生、特に法学部であれば試験で長々と論述を書いたこともあるだろう。しかし、大学生くらいの年齢であれば、思い出す経験が10を超える人はなかなかに少ないのではないだろうか。

 

 僕たちは生まれてからこのかた、たくさんの文章に接してきてはいるものの、自らそれを書く経験が圧倒的に少ないように思う。ブログを始める前の僕はそう強く感じていた。文章を書くことが好きなはずの自分でさえ、高校の模試、高校の定期誌、大学入試、大学の期末試験、就活…これら全てを合わせても「見てもらった」回数が15回に届かない。

 もちろん、見せずに書くだけになった文章は倍以上ある。だがそれは他者からの評価とはまるで無縁な代物である。4年生になる直前の僕は、そんな文章たちが浮かばれないような気がしていた。

 

 人は物事を言葉で考える。例えば、しばらくご飯を食べていないと、「腹が減ったな」という言葉が脳内を漂う。この時の「思考」には間違いなく言葉が用いられている。つまり、人間の思考ツールはどうしたって言葉なのである。もちろん焼きそばの絵やチャルメラの音が同時に思い浮かぶ人もいるだろうが、画像や音楽単体が思考の単位になることは稀である。

 人が思考のツールとして使用できるのは、おそらく言葉だけだろう。この時、もしある人が脳内に言葉を生成する能力が弱ければ、思考はその分解像度が低いものになる可能性がある。

 僕が高校生の頃、次期生徒会長が先輩の卒業式で読む「送辞」の感想を依頼されたことがあった。彼とは中高一貫の友人であり、もちろん快く承諾した。そして、彼の文章を見た時、僕は衝撃を受けた。助詞はめちゃくちゃ、文章前後の繋がりは見えず、読めども読めども全体が意味をなさない、そんな文字の連なりであったためだ。これはもちろん、当時の僕に読解力が不足していたことが影響している部分もある。しかし同じ高校生が書いた文章が、こうも理解できないことはもはや恐怖だった。同時に、彼の脳内で使われる言葉、ひいては彼の思考そのものが心配にもなった。尊大な物言いだと言うことは自覚している。

 

 脳内で扱える言葉、その連なりである文章が理路整然としていれば多くの利点がある。例えば嫌なことがあった時

「私はスーパーで中年男性に横入りをされた。これには納得がいかない。誰しもが並んで順番に会計を済ませるべきだ。この男性のやり方は矯正されないといけないし、なんならスーパーだって、並んでいることが分かりやすいように順路を設けて欲しい。彼を私は許せないので、後で友人に愚痴を言おう。いや、それ以前に目の前の男性に声をかけよう。何かの勘違いかもしれないし。いや、急いでいるわけではないから今回は許そうかな…」

とまあ、ここまで長々と脳内で思考できれば、これを考えているうちに怒りは去り、冷静に相手に抗議できるかもしれない。もっと言えば相手を慮る余裕すら生まれるかもしれない。思考が「AだからB。Bにはこんな理由がある。例えばCという理由だ。だがこれにはDという例外があって…」というようにきちんと文章として構成されれば、それだけ自分の状況を正しく認識し、それに伴った行動ができる。

 対し、嫌なことが起こった時

「イライラする」

この言葉だけで思考を済ませたり、感情がなんだかわからなくなって脳内文章構成を放棄したりすると、行き着く先は「カッとなって…」という陳述をする暴行犯かもしれない。

 

 ようは、脳内できちんとした文章を構成できることは、自分を正しく理解し、感情をコントロールできることに繋がる、ということである。僕たちにはこの能力を養う訓練が足りていないように思う。そこでタイトル「ブログのすゝめ」というわけだ。これまでとても少なかった、「文章を見せて、評価される」経験を積める媒体の一つに「ブログ」がある。インスタでもTwitterでも媒体はなんでもいいけれど、長文を書くならやっぱり「note」や「はてなブログ」が向いている気がする。個人的趣向もあるけれど。不特定多数に向けて発信するのが嫌ならば有料コンテンツにしたり公開範囲を限定しても良い。大事なのは「見られている」実感だ。これによって、きちんと物事を伝える工夫をするようになる。実際に読まれる必要はない。

 

 こうして積み上げた文章たちは、僕たちの脳内に豊さをもたらすはずだ。そして、豊かになった思考はより柔軟に、整然とする。思考を言葉に、文章に落とし込むトレーニングをみんなでしよう。ブログはいいぞ。