森の雑記

本・映画・音楽の感想

ケーキの切れない非行少年たち 見「られ」ない子供

ケーキの切れない非行少年たち

見「られ」ない子供

 

はじめに

 2020年の新書大賞で、あの「独ソ戦」に次いで2位にランクインした本書。ここ最近ビジネス書を読むことが多かったので、新書が恋しくなり、なにやら目を引く図を見て購入を決定。非行少年と聞くと、名作「謝るなら、いつでもおいで」が思い出される。

 年端もいかない彼らを犯罪へと駆り立てるのは、いったい何か。その原因に大きく近づく一歩を、この本が進んだような気がする。

 

全体をみて

 読みやすい文章、わかりやすい説明で非行少年の性質を分析していく本書。筆者が携わってきた少年たちへの深い愛情が文章から感じられる。そんな優しい文章とは裏腹に、語られる内容は衝撃的だった。

 

筆者が伝えたいこと

 誤解を恐れず本書を大まかに要約するならば、「少年が犯罪に手を染めるのは、彼らの性格や家庭環境ではなく、認知的能力の低さなどがその原因ではないか。」というまとめができるかもしれない。

 非行に走る少年には、極悪非道で残忍な思想があるわけではなく、むしろ疾患とも呼べる、人間的な基礎能力の欠如がみられる。筆者は彼らに共通する特徴として、①認知機能、見聞き、想像する能力の低さ、②感情統制の弱さ、③融通の利かなさ、④不適切な自己評価、⑤対人スキルの乏しさ+身体的不器用さ、5+1をあげる。(身体的不器用さには個人差があるため+αの扱い。)

 

 その具体例として、例えばある児童養護施設の友達とうまくいっていない子供の例がある。その子供から話を聞くと、勇気を出して友達の輪の中に「あそぼー」とこえをかけたところ、みんなが一斉にパッと逃げてしまったらしい。その子は「嫌われているんだ」と感じ、荒れ始めてしまった。

 嫌われていると感じたら、誰もが自分の敵のような感じがするし、攻撃的、他者排除的になるのも無理はないだろう、と思う。

 しかし、その時輪の中にいた何人かの子供に話を聞くと、そこでは鬼ごっこがちょうど始まったそう。もしきちんと「見る」力が備わっていれば、周囲を観察し、おにごっこの始まりを認知したうえで、輪の中に参加できたかもしれない。

 こうした能力欠如の背景には、保護者が子の発達具合に気づかない場合、子が虐待を受けていて十分な生育環境が整っていない場合があるそう。つまり、きちんと保護者に「見て」もらえないケースがバックグラウンドにある。そして、虐待を行う親には知的障害の傾向という、子供と同じハンディがみられることも少なくないというから驚きだ。

 

 では、こうした能力の欠如は改善できないのか。これには筆者が考案した「コグトレ」が有効かもしれない、と最終章で書かれる。非行少年の中には15歳を超えてなお漢字の書き取りが苦手な子もいる。漢字の書き取りは、「見て」「再現する」作業だ。あるモノを認知する機能が弱いことが学習面にも影響を及ぼす。「コグトレ」はこの力を養う様々なワーク集だ。これを紹介し、本書は締めくくられる。

 

感想

 小学生のころ、少しグレ気味、身なりがきちんとしていない子が同級生にいたことはなかったか。僕の小学校にも何人かそういった児童がいた記憶がある。彼らはだいたい、なぜか、特定の先生になつき、その他の先生を敵視していた気がする。当時は子供ながら、「なんであんなにイライラしているんだろう」と不思議に思ったが、この本を読み、他者からの信号を適切に受け取れていなかったことが原因なのかな、と思う。そして、不良児童になつかれていたあの先生は、ゆっくりと、目を見て、何度も言葉を伝えてくれる先生ではなかったか。一度友達になれば、彼らが「友達」だと認識した相手には、むしろ過剰気味に優しくしてくれた。

 

 中学受験をして以来、めっきり「不良」的な人と関わることは減った。しかし、認知の歪みがミスを引き起こすことは多い。例えばサッカー。学生コーチとして、アドバイスを送る。選手は理解したそぶりでピッチに走っていく。直後、先ほど声をかけたのと同じようなミスをする。試合にあとミスについて話し合うと、どうも話がかみ合わない。

 これは、外からの認識と、ピッチ内での認識が異なっているいい例だろう。実際には選手には時間的余裕やスペースがあるのに、当の本人がそれを認識できていない。これでは戦術的アドバイスも効果がない。戦術の前提となる景色が見えていないのだから当然だ。サッカーには認知機能のトレーニングが必要と言われ始めているのもわかる。

 サッカーという人や空間を高度に認識する必要があるスポーツで、認知のミスが起こるのは仕方がない。が、このミスが日常生活で起きたら、起き続けたら、当人にとって世界は非常に生きにくく感じられることだろう。

 こうした見ることのできない、また他者からそのことに気づかれず、能力のハンディを見てもらえない人、二重の意味で見「られ」ない人物を救うために僕たちができることはあるのだろうか。

 

おわりに

 ニュースで犯罪の報道がされると、「怖い」とか、「変な人間だ」という非常に空虚な感想を僕らは持つ。しかし、犯行に及んだ人物は、人知れず困難を抱え、障害物だらけの世界で生きてきたのではないか。認識を改善する必要は、僕らの側にもある。