森の雑記

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哲学の練習問題

哲学の練習問題

 

はじめに

 思考実験の本が読みたくていろいろ探していたところ、本書に出会った。河本英夫著「哲学の練習問題」は講談社学術文庫から出版されている。このレーベルの本をこれまでに読んだことはおそらく数えるほどしかないので、どんな雰囲気なのか想像もつかなかったが、「練習問題」のタイトルからして優しそうだし、まあ読んでみるか、と思った次第である。

 

全体をみて

 本書は「ランニングが好き」という著者の語りから始まる。これだけ聞くと普通なのだが、この著者、ただ走るだけではない。後ろ向きに走ってみたり、横向きで足を交差させてみたりと、側から見れば「変な人」でしかないランニングを行い、その違和感を楽しんでいるようなのだ。

 正直この前書きで嫌な予感もしたのだけれど、なんとか堪えて読んでみる。そして、やはりというべきか、「身体行為」を含めた「イメージ」を通して「経験の動きに自在さを獲得する」ための練習問題集であるらしい本書は、思っていたより難解、というか読みにくかった。

 以下、哲学と認知機能的な分野を組み合わせた視点をとる本書について、気になった部分を取り上げる。

 

 

言葉を揺すってみる

 人の感情は定式化されてしまっていて、バラエティが死んでいる。そこで、イケメンをみたときに心の中であえて「ブサイク」と言ってみたり、うららかな春の陽気を感じたときに「春はきらいだ」と言ってみたりする。こうすることで心の隙間、躊躇など、普段出てこない曖昧な感情が生まれる。これを継続的にすることで、感情が消えていくのを防ごうというわけだ。

 また、ものに異なる言葉を貼り付けてみよう。ブロック塀は「ネコワタリ」、トイレは「ハコ」など。自分なりの言葉を持つことで、イメージの世界はより豊かになる。

 上記は1つ目の「練習問題」に書かれていることである。この辺りはまだ理解ができるというか、効用もなんとなくありそうな感じがする。僕がした実践は、すごくまずいプロテインを飲んで「めちゃくちゃ美味しい」ということである。確かに奇妙な気持ちになった。自分に嘘をついているというか。

 

イチローと松井

 ゴジラの愛称が有名な松井選手はしばしば「今日は打てる球が来なかった」とインタビューに答えることがあったそう。この言い回しは、彼のイメージと内的運動感覚のカップリングによるバッティングに起因するものだと著者は分析。うーん、難しい。

 そんな「イメージと内的運動感覚のカップリング」へ個人的な理解を書かせてほしい。元来「イメージ」と「運動感覚」は別物である。頭で思い描く動きと実際の動きが全然違うことは、特にスポーツ経験者ならよくわかると思う。しかし松井選手はこの2つを異常なまでにリンクさせていたのだと思う。これが「イメージと内的運動感覚のカップリング」が指すところではなかろうか。ある球種、あるコースの球を完璧に捉える「イメージ」と「内的な運動感覚」が一致することで、思い通りに体が動き、あのバッティングが生まれる。だからこそ、「打てる球」=「イメージできて、なおかつ体も動く球」が来ないと、打てないというわけだ。あってるかわからないけれど。

 これとは対照的なのがイチロー選手。彼に関して著者は「感覚的認知と身体行為のカップリングの回路がいくつもある」と評する。こちらに関してはわかりやすい。球を認知して、それを打ち返すための動作方法の引き出しがたくさんあるということだろう。松井選手と違って予測というか、予備イメージを持つのではなく、対応可能性を広くとった結果があのバッティングに現れている。

 

ネコ

 谷崎潤一郎、内田百閒、寺田寅彦、3者がそれぞれに書いたネコの描写をみると、面白いくらいに違う。谷崎はネコを見て「自分がどう面白いか」を、内田は「家族の一員のように」、寺田は「個体としてのネコを分析するように」書いている。

 これがどう哲学的、認知心理学的な問題に繋がるかはさておき、この間読んだ内田百閒とこんなところで出会えるとは思いもよらず感動した。こういうことが起こるから新書と小説は両方読むに限る。

highcolorman.hatenablog.jp

 

遂行的イメージ

 狭い通路を通ろうとする時を想像して欲しい。あなたは自然と身体を斜めにしているのではないか。これは自らの「身体」イメージがあるからだ。つまり人は自分の身体について、ある程度明確なイメージを持っているのだ。だからわざわざ身体の大きさを目で見なくとも、「狭い通路を通り抜けられる身体の向き」を作ることができる。これは顔についてもそうで、人が撮った自分の写真を見た時、「写りがいい」「悪い」「5割まし」とか言えるのも、自分の顔にイメージがあるからだと言える。自分の顔を直接見たことがある人はいないのに、である。人は生涯、鏡ごしや映像でしか自らの顔を視認できない。

 

おわりに

 本当に読み応えがある本だったので、思わず途中で寝てしまった。何かをやりながら不意に眠ってしまうのは久々だったので、どこか懐かしい気持ちになった。不意に眠ることを「落ちる」と名付けた人はすごい。見事に居眠りのイメージを捉えている。