マンガ認知症
マンガ 認知症
はじめに
今の日本は超高齢社会である。2007年に高齢化率は20%を超え、もはや社会の高齢化は恐れて対処するものではなく、現実として向き合い、付き合っていくものになった。介護や認知症、自動車事故など高齢者にまつわる多岐にわたる論点は未だ明確な答えを見いだせていないし、若い世代にとっても他人事ではない。
ニコ・ニコルソン、佐藤眞一著「マンガ認知症」(ちくま新書)は、文字通り「認知症」を漫画と文章でわかりやすく伝える本である。誰もが「明日は我が身」、認知症をざっくりとでも理解しておくことは、親族の介護だけでなく、自らの老後に向けても必要なのではないか。
全体をみて
本書は章ごとに①ニコさんのコミックで概要→②佐藤先生の解説、という順で進んでいく。各章「徘徊」「運転」など事例で分けられており、認知症にまつわるあれこれをケーススタディで学ぶことができる。先に漫画形式で大枠を頭に入れてから、より詳細な説明を読むので頭に入ってきやすい。説明が上手な人はまずフレームを作ってから中身を詰めると言うが、まさにそんな感じ。
それから各章の最後にある要点のまとめページがいい。各事例ごと、意識する3つのポイントが章のおわりに書かれることで、章の総復習ができる。コミック→解説→まとめ、のスリーステップが非常に効果的。
以下、特に覚えておきたい箇所について。
公立の中学校区ごとにある施設。ケアマネージャー、社会福祉士の方、場所によっては看護師の方がいて、高齢者にまつわる相談を受けてくれるようだ。この場所が地区ごとに存在しているのを知っているだけでも気が楽になる。介護などで途方にくれる前に、まずは連絡してみよう。
「お金を盗られた」
認知症の症状として、しばしば「お金を盗られた」と言い出す方がいる。これは脳機能の低下が原因で、記憶や認知力に障害が生まれることで起こることだ。
こうした症状がみられる場合には、①「お金は大事だよね」と同意しつつ探すよう促す②介護者が疑われないよう自分で見つけさせる③興奮状態にあったら声をかけず落ち着くのを待つ この3つが有効だそう。
作話、虚記憶と言って「自分が物をなくした」という事実を認められず、偽りの記憶を保管することで自己防衛をする脳のシステムによってこの「物盗られ妄想」が起きるので、それをきちんと理解した上で冷静な対処をしよう。
同じことを何度も聞かれる
物盗られ妄想と同じく、認知症になった方は同じことを何度も聞いてしまう。こんなとき、最初の2、3回はまともに取り合えても、数が重なると邪険に扱ったり無視してしまいそうだ。
こんなときには①あとで確認できるよう、メモなどに残す②食事を何度も催促されるときは、食べ終えた食器を残しておく③相手が「拒否されている」と感じないよう、「さっきも聞いたでしょ」などとは言わない ことが大切。
記憶や認知に問題があるので、その空白や不安を補う行動を取ろう。
高齢者の自動車事故=認知症?
佐藤さん曰く、「高齢者の事故原因は認知症より単に老化が原因の物が多いのではないか、」と。確かに、そもそも老化で視野が狭くなったり、体が動きにくくなったりするので、認知症とは関係なく事故は起きやすくなりそう。事故=認知症、と早合点するのはよそう。
取りつくろい
認知症になると「計画」が立てられなくなったり、相手の話がうまく理解できなくなったりする。けれどそれがバレてしまうとプライドが傷つく。そこで発生するのが「取りつくろい」。セールスマンの勧誘を理解できずに、分かったふりをして印鑑を押してしまい、高額な商品を買ってしまうのはこうした「取りつくろい」の事例の一つと言えるだろう。
客観的にみて理解し難い行動をしている方がいれば、それはこの「取りつくろい」症状、つまり自分のプライドを守るための行動なのかもしれない。このことを理解し、自尊心を傷つけない形で対処したい。電話や玄関に「わからないことはその場で決めず、家族に相談する」と書いたメモを貼っておくとか?
徘徊
言葉から高齢者が目的もなく彷徨っている様子を想像してしまうが、佐藤先生曰く、これは誤解を呼ぶ名称だそう。偏見の助長を防ぐべく、最近は「一人歩き」と呼ばれるようにもなってきてるんだとか。
この「一人歩き(徘徊)」には2種類ある。まずはアルツハイマー型認知症の方に多い、「目的があって家を出たものの、途中で行先や道順がわからなくなってしまい、仕方なくウロウロする」場合。二つ目は前頭側頭型認知症の方に多い、「同じ行動をし続けたい衝動で、とにかくぐるぐる歩き続けてしまう」場合。後者の周遊的な徘徊には、いつもいくルート近くのお店の人に声をかけておくとかの対処ができる。前者に関しては漠然と「帰りたい」とか「昔の場所に行きたい」とか目的地が曖昧なことも多々あるので、出かけそうな場面に出くわしたら「途中までついていって話しながら気をそらす(無理に止めない)」などの対処が有効。
メンタリティ
認知症になった親族を持つ人は、「あんなに〇〇だった人が別人のようで、何を考えているかわからない」という悲しみを抱えることが多い。これはとても辛いことで、元気で聡明だった時代を知っていればいるほど精神的負担が大きくなることだろう。
しかしこれは「介護される側」も同じなのである。認知機能の低下で相手が何を考えているかはわからなくなるし、そもそも相手が誰なのかもわからない。さらには自分の行動や感情もうまく制御できない。認知症の方々は「わからない」ことだらけの世界で生きている。
お互いに何もわからないのだからコミュニケーションがうまくいくはずもない。だからこそ、貼り付けたものでもいいから、まずは笑顔で話を聞くこと。認知症の相手に信頼感を持って少しでも「わかる」人になること。こうした姿勢が必要。
おわりに
家族と自分の将来のために、本当に読んで良かった一冊。多くの人に勧めたい。
無印良品は、仕組みが9割
無印良品は、仕組みが9割
はじめに
無印良品にはいつもお世話になっている。化粧水やノートなどの消耗品は価格も使い心地も「ちょうどいい」。バターチキンカレーや不揃いバームなどの食品はシンプルにおいしい。服はクセがなくて着やすい。
そんなこのブランドには僕だけでなく多くの愛用者がいる。無印良品はいかに「定着」してきたか。その手法を明かすのが良品計画会長松井忠三著「無印良品は、仕組みが9割」(角川書店)である。
全体をみて
かつて無印良品は38億円の赤字に陥ったことがある。しかし松井さんが行った様々な施策によって、見事V字回復を成し遂げる。そこには独自のマニュアル、「MUJIGRAM」と「業務基準書」があった。
マニュアルと聞くと無機質な感じがするけれど、無印のそれはちょっと違う。それは現場の声を積極的に取り入れる「仕組み」であり、目安箱のようなものだった。目指すのは「機械化」ではなく「標準化」。そんなマニュアルを作った松井さんはどのようなことを考えたのか、本書には彼のアイディアがたっぷり詰まっている。
以下、参考になる記述について。
意識改革より行動改革
経営の雲行きが怪しくなる。コンサルタントを外部から招き、幹部に研修を受けさせる。社員の意識を変え、業務を改善する。
これは企業によくみられる対処法である。しかしこの方法を松井さんが西友に在籍したときに取り入れても、全く成果は出なかったそう。これを機に、人の意識は「仕組み」を作ってそれにしたがって行動するうちに少しずつ変わるものだと気づいたんだとか。
人の意識はソフトなものだから、研修などを行えば手取り早く動かすことができる。しかし、戻るのも早い。だから「行動」を先に変える。より本質的な部分から着手時ないといけない。
走りながら考える
何か新しいことを始めるときは「7割」の状態からでいい。あとはやりながら変えて、完成させていく。ビジネスの世界は変化しやすい。あるものシステムの10割完成を待っていても、できた時にそのシステムは役立たずになっているかもしれない。だから、「走りながら考える」。
VUCA化、コロナ禍、どんどん不確実になっていく世界においては、この「走りながら考える」姿勢が必要だ。
同質の人間どうしの議論
社内で会議やディスカッションを繰り返してもなかなか目新しい意見は出ない。それもそのはず。同じ会社に採用されて入っている時点で、そこにいる人間はある程度均質だ。そんな人たちがいくら意見を交わしても新たな視点は生まれにくい。
僕も受験や就活終えて同期と会ってみると、経歴や趣味嗜好は異なれど「価値観」みたいなものは、これまで属したどの集団よりも近しい気がする。何かを変えたいときは外部の視点を取り入れてみよう。って、若干「意識改革」のところと矛盾するようなハウトゥ。
デッドライン
「いつでもいいから」と言われて頼まれたことをやる人は稀。人に何かをさせるならデッドラインを設けよう。ただでさえデッドライン(課題の締め切りや単位取得)があってもできない人がいるのだから、なかったら。
注意のマニュアル化
人を叱ったり注意したりするときは、えてして感情的になるものである。長時間に及んだり、自分の経験を語ってしまったり、そんな注意には百害あって一利なし。と分かっていても、ついついやり過ぎてしまうのが人間である。そこで説教にもマニュアルを作ろう、というのが松井さんの提案。
目的、場所、時間、方法などなど、あらかじめルールを設けて行えば、双方遺恨を残さない注意ができるかも。
おわりに
当たり前といえば当たり前のことがたくさん書いてあった本書。でも、マニュアルだってそういうものだ。当たり前を経験に頼らず「仕組み化」するのがマニュアルである。頭の中を変えるだけにならず、そのマニュアルを「実行」していくことで、行動を改善していこう。
公開されたマニュアルの中で、個人的には服を畳むことを「おたたみ」と名付けているのが好きです。
モモ
モモ
はじめに
超有名なタイトル、ミヒャエル・エンデの「モモ」。多くの方々が小学生の時に手にしたであろうこの作品を、僕はずっと読んでこなかった。しかし、持ってはいた。両親どちらが買ったのだろうか。「モモ」は実家の本棚にひっそりと置かれていた。横目にしつつずっと目をそらしてきてしまったけれど。岩波少年文庫「モモ」の表紙はなんだか暗いし、頁数も多そうで小学生ではいまいち読む気になれない。「時間どろぼう」みたいな話もあんまり惹かれない。そうこうするうちに中学生になり、高校生になり、ついにはモモを読まないまま大学生になった。せっかく超名作が身近にあったのに、これはもったいない。そう思って先日実家に帰省した時に拝借し、ついに大島かおり訳の本書を読んだ。
全体をみて
やっぱり小学生の時に読んでおけばよかった。児童向けに書かれたこのファンタジー作品は、この年で読むには特に冒頭のファンタジー描写、空想描写がキツい。その分この作品の先見性というか、皮肉の効いたモチーフみたいなものが理解できるのは大人の特権か。子供の頃に読んだらもっとワクワクしたんだろう、と悔しい気持ちになった。
以下、各部について。
第一部 モモとその友だち
ジジやベッポなど、本作の主要キャラクターたちが軒並み登場するのが第一部。というわけで「その友だち」。
モモが何者なのか、という問いがこの年になると生まれるけれど、そんなのお構いなし。この不思議な少女は人の話を聞き、想像力を補い、みんなを幸せにしていく。下手な「傾聴力」みたいなビジネス書を読むより、この本を読んだ方がよっぽど「黙って聞く」ことの大事さが身にしみる。モモのスペシャルでシンプルな「話を聞く」才能がこれでもかと発揮される。
そんな生粋の聞き手モモに触発されたジジの話す「二つの地球」の話が面白い。暴君マルクセンティウス・コムヌスは、「今と全く同じ様子の地球」を新しく作ることを民に命令する。その命に答えるべく、地球の資源を全て使って「新しい地球」を作るが、全く同じものを作るのには、文字通り「全て」が必要。というわけで、元の地球は跡形もなくなくなってしまう。ただ「元どおり」の地球ができただけだ。今僕らの住む地球は、そんな2個目の地球なのだそう。
この説話的なお話、非常に示唆に富んでいる。同じものは2つ存在できないとか、「全て」を手にしようとすれば「全て」を捨てなくてはならないとか。
第二部 灰色の男たち
いよいよ物語は本筋に。人々の時間を奪って生きる「灰色の男たち」や、時間を司るマイスター・ホラ、カメのカシオペイヤなど、鍵を握るキャラクターたちが続々登場。
この章はすごくヨーロッパ的な感じがする。モモがたどり着いた広間の大きさを表現するのに最初に比較されるのは「教会」だし、灰色の男たちが「裁判」にかけられる様子もそんな雰囲気。
何より「時間」。資本主義が生まれたヨーロッパでは工場労働もスタート。人々は時間をお金に変えるようになり、より短い時間で多くの利益を生み出せることが優秀だとされる。そうなると必要なのは「時間通り」「効率的に」働ける人間である。その労働者を将来生産するため、時間きっかりに動く「学校」システムができたのはイギリスだったか。これは次の部に出てくる「子供の家」にも繋がる。
現代こうした効率至上主義は見直されつつある。少しはモモの風刺が効いてきたのだろうか。
第三部 〈時間の花〉
クライマックス。モモが灰色の男たちに立ち向かい、打ち負かすまで。
ただ1人「時間の大切さ」を理解するモモが、みんなを助ける。この部で出てくるジジの手紙が泣ける。あんなにおしゃべり好きだった彼が、モモに宛てたごく短い手紙からは焦燥感、愛情、優しさ、冷淡さ、ありとあらゆる感情が伝わってくる。人が余裕を失ったらどうなるか、ここを読むだけでわかる。「お金じゃなくて、どれくらい時間をかけられるかが愛」と言ったのはどこの誰だったか。
かつての友人たちが忙しなく動き回るのを見て、モモはいっそそちらの世界の住人になってしまおうかと逡巡する。けれどモモはそれを選ばない。
おわりに
この作品は作者のあとがきも素晴らしいのでぜひ読んで欲しい。大人になって読んでみると、幼少期のようなキラキラとしたものは手にできない。時間は戻らないのだな、と思う。けれどその分じっくり考えながら読むことで、新たな気づきを手にできる。時間は量ではなく質が大事なのだ。なんとなく過ごす1日より、モモを読んだ1日の方が、なんとなく長い気がした。
永遠の出口
永遠の出口
はじめに
森絵都さんの「カラフル」を初めて読んだ時の衝撃を覚えている。中学生ってこんなに汚くて、辛くて、怖いものなのか、と小学生だった僕は怯えに怯えた。実際私立の中学に行ったこともあってか、そんなことはなかったのだけれど。
学生のリアルを描写させたら絵都さんに並ぶ作家はそういない。子供のころはそれをリアルに体験しているが、それを描写できるだけの腕はない。大人になって技術がついても、学生時代の思い出は色褪せている。それなのに彼女は、どうして大人になってからリアリティたっぷりの文章が書けるのだろう。他の作家と並べるのは大変失礼だが、森絵都は重松清のような、そんな特異な才能を持っていると思う。
全体を見て
この作品は主人公岸本紀子が小学生から大人になるまでの道のりを描いたものだ。全部で9章からなる彼女の物語は、章ごと目まぐるしく登場人物が入れ替わり、章が進むにつれ彼女も成長し、舞台は変わっていく。毎章新しい登場人物が出てきては消え、出会っては別れるのを読んでいると、確かに人間関係ってこんなものだよな、と思わされる。環境の変化をまたいでも縁が続く人は本当に一握りなのである。
でも、人はいなくなっても。一度縁を持った人々の言葉や姿勢は紀子に受け継がれていく。ある章の言葉が前の章に出てきた言葉だったり、時おり紀子が過去を懐かしんだり、心の中では登場人物たちは消えない。
以下、好きな場面について。
永遠に・一生・死ぬまで
幼少期、「永遠に〜できない」という言葉が嫌いだったという紀子。何かを逃すことを過度に恐れるのはこの時期ならでは。大人になれば、永遠に経験できないことの方が多いことに気づく。姉は紀子が「永遠」を恐れるのにいち早く気づいて、度々「さっき見た〇〇綺麗だったなあ、紀ちゃんはいなかったから、一生見れないね」とか言って彼女をからかう。
兄姉はたしかに弟妹の弱点をいち早く見抜く。僕もそうだったし、そうやってからかったことがあったなあ、と。絵都さんには絶対に弟か妹がいるに違いない。いなかったら天才以外の何者でもない。
意味ある苦行
小学校4年生の時、ある事情があって仲間外れにしていた女の子の家で夕飯を食べることになった紀子。その際に出てくる、「意味を宿した苦行」という言葉が印象深い。
居心地も悪いし、できれば早く帰りたい、人はしばしばそのような場面に出会す。でも時たま、その「苦行」を行うことが大事なこともある。他者に心理的な負担をかけ、謝りに行く場面なんかはその際たる例だろう。苦行を行うことでこれまで抱えていたものが軽くなり、すっきりすることはたしかにある。
火災非常ベル
家族旅行に出かけ、宿泊先の旅館で非常ベルが鳴り響く。館内はパニック、主人公たちも例に漏れず慌てふためく。
この場面、解説で北上次郎さんも書いているけれど、お手本のような「転」である。これまでの微妙な空気を一気にひっくり返すシーンなのだ。これまで鬱陶しかった父の言動も、これを機に(同じようなことを言っているのに)好意的に感じる。まさにマジックのような話の転がし方だった。
「おはよう」
前の章で出てきた「円さん」のセリフが、主人公の口からそのまま出る場面。人は買われどその言葉が紀子に受け継がれているところに痺れる。
十年後ならいいんだよ
主人公の友人、元道は言う。「来年のこと考えるのってキツいよな」十年後ならどんな夢だって見られるけれど、近い未来のことを考えるのはリアリティがありすぎてキツいようだ。
個人的には「そうか?」と思う。近い将来のためなら、今するべきことがわかりやすい。受験が近いなら受験勉強をすればいいし、就職が近いならそのための経験と知識、メンタリティを作ればいい。でも、十年後にともなればお手上げだ。十年後のために何ができるかなんて想像もつかないし、考えても途方にくれるだけだ。
高校生の頃、あまり受験のために努力しない友人を見たり、大学で就活を全くしない友達を見たりして、怖くないのかと心配になった。けれど彼らは元道のように、近未来を考える方がしんどかったのかもしれない。
紀ちゃんなら、大丈夫
最終章、しばらくぶりに登場した小学校の同級生春子から主人公が言われるセリフ。これまで紀子の目を通して様々な経験をしてきたけれど、彼女は環境に流されることが多くて、いまいち紀子自体がどういう人間か見えてこない。でもこの最終章でようやく、ほんの少し彼女の人となりが見える。紀子の内面ばかり見てきた僕らだが、ようやく春子の目を、言葉を通して「外から見た」彼女の姿を見ることができるのだ。
おわりに
エピローグで紀子は大学に入ってからその後どうなったかを語る。それはありきたりなハッピーエンド、例えば元道と結ばれたとかじゃなく、不倫にハマったり会社を首になったりとなんとも微妙なものだ。けれど、これが本当の「ありきたり」なのだと思う。ハッピーエンドかバッドエンド、多くの作品はこのどちらかに収斂するが、大体の人間の生活はどちらでもない。
特別な才能や大きすぎる出来事が出てこない本作らしい終わり方だった。
新聞報道と顔写真
新聞報道と顔写真
写真のウソとマコト
はじめに
新聞には写真がつきものである。モノクロだったり、カラーだったり、トリミングされていたりとその掲載方法はまちまちであるものの、紙面を彩るという意味で写真は大きな役割を果たしている。最近はQRコードを読み込んで動画が見れる場合もあって、「新聞」のビジュアライズが進むばかりだ。
小林弘忠著「新聞報道と顔写真 写真のウソとマコト」(中公新書)は、新聞における「写真」の変遷を辿った一冊だ。
全体をみて
膨大な量の各紙年鑑などを読みながら、年次を追って新聞と写真のあり方を分析した1冊。ここまでの資料を読み込むのにどれほどの時間がかかったのだろう。当然本書には多くのデータや評が載せられるが、それをこっちも読み込むと疲れてしまうので、著者の努力に敬意を表しつつ重要そうなところ以外は読み飛ばしてしまった。
緻密な分析から生まれた著者独自の見解も面白い。
以下、気になった部分について。
技術が進んで新聞にも写真が掲載されるようになった頃、日露戦争が起こった。各紙はこの様子をこぞって写真掲載、戦争は新聞の視覚化を刺激した。この時代新聞への写真掲載でいえば報知の一強だったらしく、他紙が木版画を多く掲載しているのに対し、確かに報知の写真掲載枚数は群を抜いている。
神は笑わない
今度は新聞に掲載される顔写真の表情について。大正、昭和期にはまだ「笑顔」への抵抗感が強かったらしく、特に公衆にみられる新聞に掲載される顔写真については、仏頂面のものが多かったようだ。
また、軍人の写真などは機密保護のため多くが掲載不可であったらしく、時代を伺わせる。
天皇だって例外ではない。満洲国皇帝が来日した際、カメラマンの多くは皇帝を出迎えに来る天皇を取材するため東京駅に集まった。取材対象が対象なので、カメラマンはみんなモーニング姿だったそう。そんな着慣れないモーニングでぎこちなく動く彼らが面白かったのか、天皇が白い歯を見せて笑った瞬間があった。そこは彼らも写真のプロ、こぞって天皇の笑顔をカメラに収めたそう。しかし、その写真は全て掲載不可を言い渡されたそう。神は笑わないからである。
バブルの勃興とともに、報道もバブル化した。過度に扇動姿勢、商業主義、過激な写真など、各紙は「読者へのサービス」を優先し、バブルを煽っていった。
しかしその後、新聞の顔写真掲載は減っていく。
バブルが崩壊すると批判の矛先はマスコミにも向く。そこで新聞も「顔写真の掲載を減らす」という目に見えてわかりやすい抑制的な紙面を作ったのではないか、というのが著者の弁。ロス疑惑等、マスコミの過熱報道を嫌う世論に押された、というのは納得のいく説である。
死体写真
今ではなかなか目にすることもないが、戦後すぐは紙面に死体の写真が掲載されることも多かったそう。これに著者は2つの理由を挙げる。第一には、「戦時中の報道規制がおわり、その反動で真実をありのまま伝える姿勢が強化されたから」第二に「戦争を経て、人々が死体に見慣れたから」。どちらももっともらしい。
死生観
この分析、見解が本書一番の見所。近年は京都アニメーション事件にもみられたように、被害者の名前、顔写真を掲載することには多くの苦言が呈される。これはなぜだろう。
著者はここに「死生観」の変化を読み込む。
かつて(戦時中)などは、紙面に黒縁で戦死者を載せることは、「日本」という共同体に向けて行う祭祀、鎮魂の意味があった。これは犯罪被害者に関しても同様。それから次第に「勧善懲悪」的な価値観が生まれる。すなわち「かわいそう」な被害者を掲載することで犯人への憎しみを煽り、「悪はこらしめるべき」という姿勢を打ち出すのである。しかしこの姿勢は過熱していく。こうして読者の興味を引くことや派手な紙面づくりが重視された結果、顔写真の利用は「新聞社の都合」であることを読者が察知してしまう。これでは晒し者でないか、と次第に写真掲載を嫌がる世論が生まれた。
「死者」に対する捉え方は時代とともに変わっていく。今は「そっとしておいて」というような価値観が優勢なのであろう。
おわりに
1人1台デバイスを持つ時代、誰もが写真をとることが容易になった。見たものや起こったことは瞬時に不特定多数に共有されるし、新聞を読まなくては得られない情報も減った。だからこそ新聞は、単純に「できごと」を拾い上げる報道から、新たな観点を示したりより深い洞察を伴った紙面作りをしなくてはならない。写真だってそのために使うべきだろう。
ボクたちはみんな大人になれなかった
ボクたちはみんな大人になれなかった
はじめに
高校生の頃、「東京カレンダー」と「cakes」の連載をよく読んでいた。前者は東京に暮らすアッパー層の生活や小説を、後者はさまざまなクリエイターの「新しい」作品を読むことができた。片田舎で生きる僕にとってはどちらもすごく新鮮で、「東京」への憧れを培養するには十分すぎるテキストになった。
その中でもよく覚えているのが、cakesでの燃え殻さんの連載「ボクたちはみんな大人になれなかった」である。東京カレンダーが見せるのはきらびやかな東京の「表」、そしてそこに息づく「欲」だ。対してこの連載に書かれる東京は思ったより暗くて、地味で、ダサい。そんな仄暗く、センチメンタルを感じさせる「ボクたちは」は、今でいうところの「エモさ」が全面に出た小説の先駆けだったのかもしれない。
この連載を新潮社が書籍化したのは知っていたが、もうウェブで読んだし買うことはなかった。が、最近ふとしたきっかけで本書を手に取ると、「大幅な加筆修正」がされているようなので、高校生の頃を思い出す意味でも読んでみることにした。
全体をみて
当時あれだけお洒落でノスタルジックだと思っていた文章も、エモいことを売りにするあれこれが増えた今読むと、逆にダサく感じる。けれどそこがいい。
この作品は燃え殻さんの自伝なのだろうか。テレビ業界の片隅を生きる男と、容姿に何がある女性の出会い、恋、別れが順に書かれていく。どこをとっても等身大で、そのくせ気取っている文章にハマれたのは、東京に憧れていたあの頃だったからかもしれない。
以下、好きな場面について。
誤送信
小説は主人公が元カノの幸せそうなFacebookを見つけ、見ているうちに誤って友達申請を送ってしまうところから始まる。人波に巻き込まれたゆえの事故だと言うが、それが事故じゃないことは主人公が一番わかっているはず。嫌なら取り消せばいいし、そもそも人が密集したくらいで申請ボタンを押してしまうのなら、指はその近くにあったはず。
夜中に間違って送るラインも、酔ったからかける電話もきっと同じだ。内心の願望を行動に起こすにはいつだって理由が必要で、それは何だっていい。
夏でも七分袖を流行らせる運動
アトピー持ちの彼女は夏でも長丈のシャツを着る。そのことを揶揄したセリフ。
自分のコンプレックスを認めた上でポジティブかつ素っ頓狂な返しができるのって素晴らしい。
ナポリタンは作れるか?
ある女性から「努力すれば夢は叶うか」とLINEで聞かれる主人公。それに対し、「その質問は、ナポリタンは作れるか?と一緒だと思う」と返す。
これ系の捻った答えって、テキストメッセージにした瞬間一気にダサくなる。考えて打った雰囲気とか、気取りすぎな感じとか、後に残るところとか、とにかくダサい。でもサブカルに陥ってるときはやりがち。
対面で即興的にこの答えが出たらカッコよくなる余地、面白くなる余地はあるけれど、文字だとどうしても。
笑いながら話しかけてくる人間に善人はいない
主人公の座右の銘のひとつ。何かしらの社長と会ったときの描写。そんなこともないけれど、座右の銘は信仰の一種だから否定もできない。でもこの反対、「むすっとした顔で話しかけてくる人」に悪い人はいなさそう。
あなた
本書もっとも効いている場面のひとつ。ここは歳をとってから読んでも変わらず素敵だった。というかこんな場面当時あったっけ、というくらい素敵。主人公が出会った女性「スー」の性格がとてもまっすぐかつ不器用なところがいい。
静岡駅北口
主人公の実家があるところ。今になっては全く面影もないストリップ劇場や立ち飲み屋の描写がリアル。破れた教科書にまつわるエピソードは涙なしに読めない。
今の北口はとてもきれい。
おわりに
著者と大槻ケンヂの対談で、大槻は「サブカル恋愛」は「アイタタタ」であるという。確かに本書は痛々しくて見てられないほどの描写も多い。変に気取ったり、メインストリームから外れたところに美徳を見出したり、そんな場面はあげればキリがない。
けれど、本書はそこがいい。痛さも、気持ち悪さも、全部等身大で書かれているのが本書を愛せる由縁である。きれいなエモさだけを取り出し抽出したものとは違う。実際の人生って結構痛い場面も多いので。
言葉から文化を読む
言葉から文化を読む
アラビアンナイトの言語世界
はじめに
この間に引き続きまたアラビアンナイト関連の本を読みました。
全体をみて
臨川書店の「フィールドワーク選書」シリーズの本。フィールドワークに焦点を当て、多くの人に興味を持って欲しい、ということで始まったシリーズらしい。
西尾さんがアラブのさまざまな場所で行う言語学のフィールド調査の描写に漂う異国情緒が素敵な一冊だった。言語学や比較人類学の専門用語もちょくちょく出てきてはてなマークが頭に浮かぶこともあったが、少なくともルポ部分に関してはとても楽しく読める。
以下、著者のエピソードや見解のうち面白かった部分について。
エルサレムでタクシーに乗っていた著者は、タクシー運転手と揉め事を起こす。どうやら運転手はアジア人に料金を吹っかけようとしているらしいが、著者は歴戦のフィールドワーカー。言葉もわかるし反論もできる。そこで口論になった後、無事正当な料金を支払い終えた時、事件が起こる。凄まじい爆発音、騒然とする街、自爆テロが起こったのだ。
この事件に関する著者のコメントが素晴らしい。「アラブとユダヤという集団間のにくしみが、どうして自爆というひとりの人間の自己否定による行為に帰結しなくてはならなかったのだろう」(p6)。人命がかかった場面のコメントに「素晴らしい」というのは大変不謹慎だけれど、著者の言葉は自爆行為の虚しさをとてもうまく言語化していると思った。このような悲劇はいつかなくなるのだろうか。
現地の言葉を知るために、紙に黒ペンでぐちゃぐちゃした絵を描き、それを現地人に見せる。すると彼らはそれを見て我々でいう「何?」に相当する言葉を発する。それができれば、あとは彼らの持ち物やあたりのものを指差して、先ほど得た「何?」という言葉を使えば、現地語は収集できる。こんな話を聞いたことがないだろうか。
これは有名な言語学者、金田一京助がアイヌ語を調査した時のエピソードだと言われている。でもこの話、本当は実話でないそう。金田一はフィールドワークに入る前から予めアイヌ語をある程度習得していたようだ。
りっぱな血をひくおこないのすぐれた人びと
シェークスピアの「ヴェニスの商人」には、「1ポンドの人肉」の話が登場する。これは自らの肉を借入の担保にするというエピソードで、知っている方も多いだろう。
本書ではこの説話が度々話題にあがる。というのも、アラブ世界にもこの「1ポンド」モチーフを持つ「りっぱな血をひくおこないのすぐれた人びと」という話があるためだ。離れた2つの地に、どうして同じような説話があるのか。どちらかから伝わったのか、偶然同時発生したのか。いつできたのか、など疑問は尽きない。
アラビアンナイトの面白さ
著者がアラビアンナイト研究の末たどり着いた結論は「アラビアンナイトのおもしろさは、教訓から逸脱したところにある」というもの。アラビアンナイトには理不尽な話や肉感の強い話、突拍子もない話など、いまいち教訓や伝えたいことがわからない話も多い。しかし、そこに面白さがある、ということだろう。
先日読んだ「アラビアンナイトを楽しむために」の著者も同じようなことを書いてい他ので、これはもしやアラビアンナイト通の間ではまことしやかに語られている見解なのかも。物語から何を取り出すかは読み手の自由だし、取り出さないのもまた自由だ。
色眼鏡としてのアラビアンナイト
1704年、ガランがヨーロッパに「アラビアンナイト」を紹介して以来、ヨーロッパの人々は常にこの本を通してアラブ世界を見てきたと言っても過言ではない。サイードはこうしたオリエンタリズムを批判するが、逆にヨーロッパのアラブ系移民がアイデンティティを求めてアラビアンナイトを読むこともある。
このようにアラビアンナイトは欧州がアラブ世界に持つ偏見、憧れ等々さまざまなものを導き出してきた。
というようなことを著者が言っていると(個人的に)思う。三章にあるこの辺りの話がすごく面白くて、うまく文章にできないのがもどかしい。「何かアラビア的なもの」の総集編とも言えるアラビアンナイトの功罪、紹介者のバイアス、いろんな面でこの千一夜は魅力的だなと。
アラブの遊牧民などはは最新情報に疎いというイメージをもたれるかもしれないが、それは誤りである。彼らは普通に仏製デュラレックスの食器を使っているし、情報電鉄が非常に早い。湾岸戦争が起きる前には、独自の情報網で素早く戦争のスタート日を予測、著者に帰国するよう促したそう。著者の見解では数週間は猶予があるだろうと見ていたが、彼らは数日後に開戦を予測、結果は遊牧民たちのいう通りであった。
おわりに
日本神話ブームがきたり、民俗学ブームが来たり、アラビアンナイトブームが来たりと、忙しなく読む本のタイプが変わるなあと自分で思う。興味の範囲が広がっていくのは良いことだと思う。次は何を見つけられるかなあ。