森の雑記

本・映画・音楽の感想

モモ

モモ

 

はじめに

 超有名なタイトル、ミヒャエル・エンデの「モモ」。多くの方々が小学生の時に手にしたであろうこの作品を、僕はずっと読んでこなかった。しかし、持ってはいた。両親どちらが買ったのだろうか。「モモ」は実家の本棚にひっそりと置かれていた。横目にしつつずっと目をそらしてきてしまったけれど。岩波少年文庫「モモ」の表紙はなんだか暗いし、頁数も多そうで小学生ではいまいち読む気になれない。「時間どろぼう」みたいな話もあんまり惹かれない。そうこうするうちに中学生になり、高校生になり、ついにはモモを読まないまま大学生になった。せっかく超名作が身近にあったのに、これはもったいない。そう思って先日実家に帰省した時に拝借し、ついに大島かおり訳の本書を読んだ。

 

全体をみて

 やっぱり小学生の時に読んでおけばよかった。児童向けに書かれたこのファンタジー作品は、この年で読むには特に冒頭のファンタジー描写、空想描写がキツい。その分この作品の先見性というか、皮肉の効いたモチーフみたいなものが理解できるのは大人の特権か。子供の頃に読んだらもっとワクワクしたんだろう、と悔しい気持ちになった。

 以下、各部について。

 

第一部 モモとその友だち

 ジジやベッポなど、本作の主要キャラクターたちが軒並み登場するのが第一部。というわけで「その友だち」。

 モモが何者なのか、という問いがこの年になると生まれるけれど、そんなのお構いなし。この不思議な少女は人の話を聞き、想像力を補い、みんなを幸せにしていく。下手な「傾聴力」みたいなビジネス書を読むより、この本を読んだ方がよっぽど「黙って聞く」ことの大事さが身にしみる。モモのスペシャルでシンプルな「話を聞く」才能がこれでもかと発揮される。

 そんな生粋の聞き手モモに触発されたジジの話す「二つの地球」の話が面白い。暴君マルクセンティウス・コムヌスは、「今と全く同じ様子の地球」を新しく作ることを民に命令する。その命に答えるべく、地球の資源を全て使って「新しい地球」を作るが、全く同じものを作るのには、文字通り「全て」が必要。というわけで、元の地球は跡形もなくなくなってしまう。ただ「元どおり」の地球ができただけだ。今僕らの住む地球は、そんな2個目の地球なのだそう。

 この説話的なお話、非常に示唆に富んでいる。同じものは2つ存在できないとか、「全て」を手にしようとすれば「全て」を捨てなくてはならないとか。

 

第二部 灰色の男たち

 いよいよ物語は本筋に。人々の時間を奪って生きる「灰色の男たち」や、時間を司るマイスター・ホラ、カメのカシオペイヤなど、鍵を握るキャラクターたちが続々登場。

 この章はすごくヨーロッパ的な感じがする。モモがたどり着いた広間の大きさを表現するのに最初に比較されるのは「教会」だし、灰色の男たちが「裁判」にかけられる様子もそんな雰囲気。

 何より「時間」。資本主義が生まれたヨーロッパでは工場労働もスタート。人々は時間をお金に変えるようになり、より短い時間で多くの利益を生み出せることが優秀だとされる。そうなると必要なのは「時間通り」「効率的に」働ける人間である。その労働者を将来生産するため、時間きっかりに動く「学校」システムができたのはイギリスだったか。これは次の部に出てくる「子供の家」にも繋がる。

 現代こうした効率至上主義は見直されつつある。少しはモモの風刺が効いてきたのだろうか。

 

第三部 〈時間の花〉

 クライマックス。モモが灰色の男たちに立ち向かい、打ち負かすまで。

ただ1人「時間の大切さ」を理解するモモが、みんなを助ける。この部で出てくるジジの手紙が泣ける。あんなにおしゃべり好きだった彼が、モモに宛てたごく短い手紙からは焦燥感、愛情、優しさ、冷淡さ、ありとあらゆる感情が伝わってくる。人が余裕を失ったらどうなるか、ここを読むだけでわかる。「お金じゃなくて、どれくらい時間をかけられるかが愛」と言ったのはどこの誰だったか。

 かつての友人たちが忙しなく動き回るのを見て、モモはいっそそちらの世界の住人になってしまおうかと逡巡する。けれどモモはそれを選ばない。

 

おわりに

 この作品は作者のあとがきも素晴らしいのでぜひ読んで欲しい。大人になって読んでみると、幼少期のようなキラキラとしたものは手にできない。時間は戻らないのだな、と思う。けれどその分じっくり考えながら読むことで、新たな気づきを手にできる。時間は量ではなく質が大事なのだ。なんとなく過ごす1日より、モモを読んだ1日の方が、なんとなく長い気がした。