新聞報道と顔写真
新聞報道と顔写真
写真のウソとマコト
はじめに
新聞には写真がつきものである。モノクロだったり、カラーだったり、トリミングされていたりとその掲載方法はまちまちであるものの、紙面を彩るという意味で写真は大きな役割を果たしている。最近はQRコードを読み込んで動画が見れる場合もあって、「新聞」のビジュアライズが進むばかりだ。
小林弘忠著「新聞報道と顔写真 写真のウソとマコト」(中公新書)は、新聞における「写真」の変遷を辿った一冊だ。
全体をみて
膨大な量の各紙年鑑などを読みながら、年次を追って新聞と写真のあり方を分析した1冊。ここまでの資料を読み込むのにどれほどの時間がかかったのだろう。当然本書には多くのデータや評が載せられるが、それをこっちも読み込むと疲れてしまうので、著者の努力に敬意を表しつつ重要そうなところ以外は読み飛ばしてしまった。
緻密な分析から生まれた著者独自の見解も面白い。
以下、気になった部分について。
技術が進んで新聞にも写真が掲載されるようになった頃、日露戦争が起こった。各紙はこの様子をこぞって写真掲載、戦争は新聞の視覚化を刺激した。この時代新聞への写真掲載でいえば報知の一強だったらしく、他紙が木版画を多く掲載しているのに対し、確かに報知の写真掲載枚数は群を抜いている。
神は笑わない
今度は新聞に掲載される顔写真の表情について。大正、昭和期にはまだ「笑顔」への抵抗感が強かったらしく、特に公衆にみられる新聞に掲載される顔写真については、仏頂面のものが多かったようだ。
また、軍人の写真などは機密保護のため多くが掲載不可であったらしく、時代を伺わせる。
天皇だって例外ではない。満洲国皇帝が来日した際、カメラマンの多くは皇帝を出迎えに来る天皇を取材するため東京駅に集まった。取材対象が対象なので、カメラマンはみんなモーニング姿だったそう。そんな着慣れないモーニングでぎこちなく動く彼らが面白かったのか、天皇が白い歯を見せて笑った瞬間があった。そこは彼らも写真のプロ、こぞって天皇の笑顔をカメラに収めたそう。しかし、その写真は全て掲載不可を言い渡されたそう。神は笑わないからである。
バブルの勃興とともに、報道もバブル化した。過度に扇動姿勢、商業主義、過激な写真など、各紙は「読者へのサービス」を優先し、バブルを煽っていった。
しかしその後、新聞の顔写真掲載は減っていく。
バブルが崩壊すると批判の矛先はマスコミにも向く。そこで新聞も「顔写真の掲載を減らす」という目に見えてわかりやすい抑制的な紙面を作ったのではないか、というのが著者の弁。ロス疑惑等、マスコミの過熱報道を嫌う世論に押された、というのは納得のいく説である。
死体写真
今ではなかなか目にすることもないが、戦後すぐは紙面に死体の写真が掲載されることも多かったそう。これに著者は2つの理由を挙げる。第一には、「戦時中の報道規制がおわり、その反動で真実をありのまま伝える姿勢が強化されたから」第二に「戦争を経て、人々が死体に見慣れたから」。どちらももっともらしい。
死生観
この分析、見解が本書一番の見所。近年は京都アニメーション事件にもみられたように、被害者の名前、顔写真を掲載することには多くの苦言が呈される。これはなぜだろう。
著者はここに「死生観」の変化を読み込む。
かつて(戦時中)などは、紙面に黒縁で戦死者を載せることは、「日本」という共同体に向けて行う祭祀、鎮魂の意味があった。これは犯罪被害者に関しても同様。それから次第に「勧善懲悪」的な価値観が生まれる。すなわち「かわいそう」な被害者を掲載することで犯人への憎しみを煽り、「悪はこらしめるべき」という姿勢を打ち出すのである。しかしこの姿勢は過熱していく。こうして読者の興味を引くことや派手な紙面づくりが重視された結果、顔写真の利用は「新聞社の都合」であることを読者が察知してしまう。これでは晒し者でないか、と次第に写真掲載を嫌がる世論が生まれた。
「死者」に対する捉え方は時代とともに変わっていく。今は「そっとしておいて」というような価値観が優勢なのであろう。
おわりに
1人1台デバイスを持つ時代、誰もが写真をとることが容易になった。見たものや起こったことは瞬時に不特定多数に共有されるし、新聞を読まなくては得られない情報も減った。だからこそ新聞は、単純に「できごと」を拾い上げる報道から、新たな観点を示したりより深い洞察を伴った紙面作りをしなくてはならない。写真だってそのために使うべきだろう。