森の雑記

本・映画・音楽の感想

短編小説講義

短編小説講義

増補版

 

はじめに

 筒井康隆といえば、星新一小松左京と並ぶ日本SF御三家の1人である。彼が原作を書いた映画「パプリカ」は独特な映像が気になる代物で、いつか観ようと思っている。ネットフリックスのマイリストに入りっぱなしであるが。

 そんな彼が「短編小説」 について語った本を見つけた。岩波新書発行、筒井康隆著「短編小説講義」である。彼の作品に触れたことがないのに本書を手を出すのは少々気が引けたが、とっても面白そうなので読んでみた。前回記事にした「記憶の盆をどり」の作者町田康とは偶然にも「康」つながりである。

 

全体を観て

 小説のあり方、現状などを分析するところから書かれた本書。異常なまでの短編信仰や「習い事化」する物語構成などに、著者は批判を行う。戯曲や詩から脱却する形でスタートした小説とは本来自由なものであり、決まった形式に縛られすぎることはない。特に我が国では芸道化しつつある「短編小説」にメスを入れるような1冊。

 たしか「13歳のハローワーク」だったかで、村上龍も行言っていたように、誰でもなれる「小説家」という職業だからこそ、そこには独自性や独創性がなくては光らないのかな、と思う。

 以下、筒井康隆が行った短編についての解説のうち、好きなものについて。

 

二十六人の男と一人の少女

 ゴーリキーが書いた短編。パン作りを行う囚人たちと、そこにパンを買いに来る1人の少女のお話。

 まず筒井氏はこの作品を「1人称複数」で書かれた珍しい小説だと言う。パンを作る囚人たちの人格が1つにまとめられているからだ。もちろん彼らに個性は描写されない。これを「必然に見せる」のが本作のすごいところ。普通こんな1人称複数の物語を読んだら違和感が残る。もしクラスメイト全員を1つの人格として捉えた学園小説なんてものがあったら、さぞかし奇妙だろう。しかし本作では少女を「信仰」する彼らが均質化されることへの違和感は全くない。むしろ全員がひとつであることに意味がある。

 こういう新たな書き方をするゴーリキーもさることながら、見抜く筒井氏も。また、1度だけ「バーウェル」という名前が出てくるところも、そこに必然性があるのが良い。信仰が薄れかかって集団が1つでなくなったことを暗示しているのだろう。

 

幻滅

 こちらは有名なトオマス・マンの短編。街中を往復し続ける男について。

 「社会経験がほとんどないまま小説を書いてしまうということが可能だろうか」と書き始められる解説は、まず「若い」書き手が生煮えの知識を使って小説を書くのがいかに難しいか、という問いを立てる。そして若書きながら良い作品を書くのはある種の「才能」だとも。

 トオマス・マンは間違いなくこの才能に恵まれた作家であろう。緻密な人間観察、誰もが経験する「あの感覚」を見つけ出して言語化するセンス、どちらも類稀なものだと筒井氏は評する。

 「最近は映画の見過ぎで、奇跡も珍しくなくなったね」はRADWIMPSトレモロ」に出てくる歌詞だが、若い時に小説を読みまくったトオマスもきっと同じ気持ちだったのだろう。

 

新たな短編小説に向けて

 都合8本の短編を解説した後、筒井氏が一息入れる、もとい総括を行う。ここまで解説された技法や凄みは、今やっても新鮮さがなく、もしかすると「パクリ」のレッテルを貼られるかもしれない。だからこそ「良い小説」なるものを書くには、これまで生まれたたくさんのテキストを読み、「飽き飽き」しなくてはならない。その時初めて新しい表現の扉を叩ける。

 傑作が生まれるには、ある種の内在律をどうにかして突破しなくてはいけない。

 

繁栄の昭和

 本書最後に解説されるのは、筒井康隆本人の短編である。ある法律事務所で働く男のお話。

 この解説は圧巻。本人の作というだけあって解説が圧倒的に詳しいし、「メタフィクション」を使った表現はさすがの一言。一文一文に意味があって、違和感にも意味があって、タイトルにも意味がある。これを短編の枠内で仕上げるのはまさに鬼の所業。

 こんな人が原作を書いた「パプリカ」早く観ないと。

 

おわりに

 「名作」と呼ばれる作品を読んでも案外つまらないことがある。でもそれはその作品の凄み、独自性に気づかないためであることは多い。「罪と罰」が良い例だろう。だから本書のように、作品の仕掛けや特異点を解説してもらえるのはありがたい。とても良い本でした。

 

記憶の盆をどり

記憶の盆をどり

 

はじめに

 先日読んだ「きげんのいいリス」は小説と呼ぶにはライト、かつ深すぎた。決して貶しているわけではなく、ものすごくいい本だったのだけれど。となるときちんと「ザ・小説」みたいなものを読んだのは色川武大「怪しい来客簿」まで遡る。実にひと月前である。

 そんなわけで久々に小説を読もうと思って、手当たり次第に探していたところ、町田康著「記憶の盆をどり」(講談社)にたどり着いた。謎めいたタイトルはどんな物語を象徴しているのだろう。

 

全体をみて

 長編小説かと思いきや短編集だった。そんな本書は2019年に出版されていて、けっこう新しい。

 著者の町田康は2000年に「きれぎれ」で芥川賞を受賞しているらしい。恥ずかしながら全く知らなかった。さらに著者は音楽活動もしているようだ。バンドの名前は「汝、我ガ民に非ズ」かっこよすぎるでしょ。

 各短編は基本的に不条理かつ突拍子もない設定が多く、オチの意図もけっこう考えさせられる。いわゆる「難しい」話と言っていいだろう。でも面白い。古風ながらふざけた文体は読んでいて飽きないし、散りばめられたモチーフはどれも含みがある。こういう小説は何度も読むとより味わいが深くなるというものだ。

 以下、好きな短編について。

 

山羊経

 借金をしたのち行方をくらました義行を追う惟安経高。彼の一人称をベースに物語は進んでいく。

 とにかくスピード感がすごい。惟安の脳内、思考がほとんどそのまま文章化されているので、時に脱線、時に意味不明になりながらも、話がぐんぐんと進んでいく。この物語のピークは惟安が死んだはずの父に会うところ。これはあくまで精神世界で会ったのか、それとも実際に会ったのだろうか。そしてその父は「大日如来だった」。もうここが面白すぎる。父と子の繰り広げる脱力の会話が本当にいい。ピーピングライフを見ているようだ。

 結局義行から借金を取り立てることはできず、なんだかよくわからない感じになって物語は終わる。物語の結末をそう解釈したら良いものか、ずっと考えてしまう。

 

百万円もらった男

 音楽の才能を百万円で売った男の話。もらった百万円が次第に減っていく様子はなんだか死へのカウントダウンを見ているよう。

 才能って一体なんだろうとか、お金のありがたみと儚さとか、一編に多くの示唆が盛り込まれている。売ってしまった才能、枯れてしまった才能は2度と取り戻せないが、後に残った荒地を耕すことはできる、と言われた主人公が最後に言い残す言葉がかっこいい。 

 誰でも自分の才能を信じたい。でもそんなものはなかなか見つからない。そんな状況で「百万円で才能を買う」と言われたら、あなたはどうしますか。

 

付喪神

 京都四条河原町が舞台のハイテンション妖怪大戦争

 ド派手なB級映画を見たかのような読後感。捨てられたモノに自我が生まれ、人間に復讐をしていく様子が面白い。カジュアルに人間が死ぬ。

 冒頭はモノたちの掛け合いが、後半にいくにつれて人間たちの呑気さが面白くなる。下請け、サステナブル、事なかれ主義など、社会風刺を折込みつつ物語として昇華する著者の腕に唸るばかり。

 付喪神が変形するにはどうしたらいいか、と聞かれた時に「鈴」が答えた「気合いだと思います」というセリフがかっこいい。

 

ずぶ濡れの邦彦

 「絶対に走らないこと」を条件に結婚した男の話。

 まあこの手の話って大体約束を破って終わるんだけど、この短編の魅力はオチじゃない。なぜ「走らないこと」を求めるか、それをどう納得するか、2人がそれを「不合理」と思いながらも無理やり論理立てていく様子を見るのが楽しいのだ。明らかに理不尽なことを無理に納得することは誰にでも経験があると思うけれど、それを文章で改めて見ると、いかにおかしなことかが理解できる。

 

記憶の盆をどり

 表題作。時々記憶が抜け落ちる男のお話。

 短編集を読んでいて表題作にたどり着いた時って謎の高揚感がないですか。アーティストのライブに行って超有名曲が演奏され始める瞬間みたいな。「ついにきた!』的な。ちょくちょく表題作が一発目にくる短編集もあるけれど、あれはあれでいい。

 「唯一の合理的な説明は、女が美しかったから」というセリフはなんだか真理をついているような気がした。

 

おわりに 

 この本は手元に来てから3ヶ月くらい経っていたので、来歴を忘れていた。元は岸本佐知子さんの選書にあった「くっすん大黒」を読もうと思ったら図書館になくて、仕方なく同じ著者の別作品を取り寄せたのだった。「記憶の盆をどり」を読んで自分の抜け落ちていた記憶を思い出すという、なんとも不思議な経験でした。

ずぼらヨガ

ずぼらヨガ 

自律神経どこでもリセット!

 

はじめに

 最近は若干昼夜逆転気味の生活を送っている。夜思った時間に寝られないことも時々ある。事情があるので仕方ないとはいえ、できれば人らしいタイミングで眠りたいものだ。悩みというほど深刻なものでなく、あくまでちょっとマシになればな、というくらいだけど。

 睡眠サイクルや生活習慣は自律神経と深い関係がある。であれば、自律神経を整えれば多少現状が改善するかも、と思って崎田ミナ著、福永伴子監修「自律神経どこでもリセット!ずぼらヨガ」(飛鳥新社)を読んでみた。

 

全体をみて

 漫画ベースでとても簡単に「ヨガ」を実践するやり方が書かれている。自律神経失調、うつ気味だった著者は、どこでも・数秒でできる「ずぼら」なヨガストレッチを取り入れることで、少しづつ体調がよくなったらしい。

 本書で紹介されるヨガはマットもいらないし体の柔らかさも必要ない。誰にでも即実行できるお手軽なものだ。

 以下、やってみたいポーズ。

 

タツノオトシゴ

 仰向けで腰をひねり、背骨を捻るようなイメージで行うヨガ。これ本当に気持ちいいのでおすすめです。

 

喉ストレッチ

 喉を伸ばすことで呼吸は安定させるストレッチ。緊張した時、イライラした時など、自分に余裕がないと思ったらやってみたい。

 

 ラジオ体操でお馴染み、体の側面を伸ばすポーズ。肺が広がって呼吸が深まるようだ。デスクにいながらでもできる。

 

うさぎ

 土下座をするようなポーズで床に脳天をグリグリ押し付けるストレッチ。見た目が悪いので家でしかできないが、思った以上にすっきりする。タオルをしいてやることがお勧めされているけれど、面倒なので床に頭を直付けでやった。気持ちいい。

 

朝昼夜

 本書のおわりでは1日を朝、昼、夜の3つに区切り、それぞれの時間帯にお勧めなストレッチが紹介される。特に昼のヨガはどこでも人目を気にせずできるものなのでお勧め。

 

おわりに

 著者が「おわりに」で紹介する心療内科の先生の言葉が印象的だ。「心なんて命の一部だから。心や頭があてにならなくなったら、体を動かしたりするのはすごくいい」。なんだかはっとさせられるところがある。感情や思考を調整するのは難しいけれど、体は自らの意思で物理的に制御できる。だからこそどこか不具合を感じた時には、まず体を「意識的に」動かすことで、改善の兆しを作れるのではないか。「ずぼらヨガ」とてもいい本でした。

The Third Door 精神的資産のふやし方

TheThirdDoor

精神的資産のふやし方

 

はじめに

 ここ数日移動が多かったので、道中自己啓発本でも読もうかと思って、アレックス・バナヤン著、太田黒奉之訳「サードドア」を取り寄せた。届いたそれを手に取ると、思ったより分厚く、ずっしりという形容がよく似合う本だった。内容や著者については全く知らず、完全にタイトル借りをした代物だっただけに、唐突な重みには少々面食らった。

 

全体をみて

 自己啓発本というよりは、アレックス・バナヤンの自伝といった雰囲気だった。彼の数奇で行動力のありすぎる半生を通して「サードドア」をくぐることの重要性が語られる。一人称で書かれているため、文体はカジュアルだから400p超の頁数ほどには読むのにストレスはない。

 以下、好きな部分について。

 

サードドア

 冒頭、アレックスは「成功には3つの入り口がある」という。ファーストドア、正面入口は99%の人が列をなし、少しずつ、届くかもわからぬ成功に向かっている。セカンドドア、これはVIP専用。セレブや名家が使う裏口。そしてサードドア。どこにだってあるけれど誰もありかを教えてくれない。裏道を進み、たくさんのドアをノックし、ようやくたどり着いたキッチンのその先にあるドアだ。

 彼は「偉大な成功者はみんなサードドアをくぐった」という結論を得た上で、本書を著す。

 

スピルバーグ・ゲーム

 ユニバーサルスタジオのツアーバスをこっそり降りたスピルバーグが、内部に潜入し、ついにチャンスを得た、というのは有名な話。アレックスはこの時スピルバーグがした行動を「スピルバーグ・ゲーム」として定式化する。内容はこうだ。①ツアーバスを降りる(正規ルートを離れる)②インサイドマンを見つける(内部関係者とコネクションを作る)③その人に中に入れてもらう。

 自分に自身があり、行きたい場所があるのにそのチャンスがないと嘆くのであれば、「スピルバーグ・ゲーム」に挑むべきだと思う。就活だって転職だって、結局スピルバーグ・ゲームができさえすればうまくいく。なのになぜみんなやらないか。それはツアーバスを飛び降りるのがあまりに怖いからだろう。けれど、一度降りればその時の快感はきっと忘れられない。学校を初めてサボったあの日のことって、いつまでも光っているじゃないですか。

 

5つのルール

 アレックスがエリオットに言われた5つのるルールが最高にクール。①ミーティング中は携帯を見るな。デジタル化が進んだ今、アナログにメモを取る方が相手の印象に残る。②メンバーとして振舞え。相手を上に見すぎず、一員として振舞えば仲間になれる。③神秘が歴史を作る。あれこれSNSに自己開示をするのは魅力的じゃない。④俺の約束を破るな。信頼を築くのには長い時間がかかるが、崩れるのは一瞬。⑤冒険好きなものにだけチャンスは訪れる。

 どれも含蓄があるけれど、②は目新しくて好き。

 

異なるアドバイス

 これは名言とかではなく、作中のエピソードから。アレックスが選択を迷っている時、信用する2人から異なるアドバイスをうけるシーンがある。ここでは誰しもが一度は経験する、神経をすり減らす場面「目上の2人からそれぞれ違う指示を受ける」について、アレックスは一つの答えを出してくれたように思う。

 「いつも親身になってくれる方が正しいとは限らない」そういってアレックスは片方のアドバイスに従うのだけれど、これは結果として裏目に出る。それどころかアレックスが受け入れたアドバイスの主は大嘘つきだった。

 ここで学べるのは、「相手の言い分がいかに正しいか」より、「そのアドバイスは誰のためになされたか」を見る方が大切だということだ。いかにいいアドバイスであろうとも、成功したときに利を得るのが誰かを考えれば、自ずと選択は決まる。

 

同じ教訓に何度も頭を叩かれて

 アレックスが同じような失敗を何度も繰り返したときに出てくるのが「人生とは、同じ教訓に何度も頭を叩かれて、やっとそれに耳を傾けるものなのだ」という言葉。

 「1度痛い目を見ないとわからない」とはよくいうけれど、喉元過ぎれば熱さを忘れる僕らには、一度の失敗じゃ足りない。教訓は何度も失敗してようやく学ぶものなのだ。

 

レディ・ガガアンディ・ウォーホル

 スープ缶で有名なアンディ・ウォーホルレディ・ガガのヒーローらしい。確かに「既存の価値観への挑戦」という共通項で2人を括ることができる。

 YouTube大学でアートの授業を見ていなかったらここに納得できなかったので、中田敦彦さまさまである。

 

おわりに

 「世界中の著名人にインタビューをして1冊の本にする」優秀ではあるがどこにでもいる大学生の馬鹿げた挑戦が身を結んだ本書。彼もまた「サードドア」をくぐったのだろう、と安い締め方をするのもいいけれど、ここではやめておく。

 アレックスがこの企画を成功させたのは、滑り出しのクイズショーで運が良かったからだとも思うし、そもそも英語圏にいるから「多くの人にインタビューする」計画が自然に完遂できた部分もあるだろう。つまり彼の成功は偶然や環境によっている部分はけっこう大きいのではないか、と僕は思うのだ。そんな彼にとっての「サードドア」は僕らより身直にあったはずだ。

 環境に恵まれない僕らが「サードドア」をくぐるにはどうすれば良いか。それはスピルバーグ・ゲームの①を、まずはやってみるしかないんじゃないかな、と。

哲学の練習問題

哲学の練習問題

 

はじめに

 思考実験の本が読みたくていろいろ探していたところ、本書に出会った。河本英夫著「哲学の練習問題」は講談社学術文庫から出版されている。このレーベルの本をこれまでに読んだことはおそらく数えるほどしかないので、どんな雰囲気なのか想像もつかなかったが、「練習問題」のタイトルからして優しそうだし、まあ読んでみるか、と思った次第である。

 

全体をみて

 本書は「ランニングが好き」という著者の語りから始まる。これだけ聞くと普通なのだが、この著者、ただ走るだけではない。後ろ向きに走ってみたり、横向きで足を交差させてみたりと、側から見れば「変な人」でしかないランニングを行い、その違和感を楽しんでいるようなのだ。

 正直この前書きで嫌な予感もしたのだけれど、なんとか堪えて読んでみる。そして、やはりというべきか、「身体行為」を含めた「イメージ」を通して「経験の動きに自在さを獲得する」ための練習問題集であるらしい本書は、思っていたより難解、というか読みにくかった。

 以下、哲学と認知機能的な分野を組み合わせた視点をとる本書について、気になった部分を取り上げる。

 

 

言葉を揺すってみる

 人の感情は定式化されてしまっていて、バラエティが死んでいる。そこで、イケメンをみたときに心の中であえて「ブサイク」と言ってみたり、うららかな春の陽気を感じたときに「春はきらいだ」と言ってみたりする。こうすることで心の隙間、躊躇など、普段出てこない曖昧な感情が生まれる。これを継続的にすることで、感情が消えていくのを防ごうというわけだ。

 また、ものに異なる言葉を貼り付けてみよう。ブロック塀は「ネコワタリ」、トイレは「ハコ」など。自分なりの言葉を持つことで、イメージの世界はより豊かになる。

 上記は1つ目の「練習問題」に書かれていることである。この辺りはまだ理解ができるというか、効用もなんとなくありそうな感じがする。僕がした実践は、すごくまずいプロテインを飲んで「めちゃくちゃ美味しい」ということである。確かに奇妙な気持ちになった。自分に嘘をついているというか。

 

イチローと松井

 ゴジラの愛称が有名な松井選手はしばしば「今日は打てる球が来なかった」とインタビューに答えることがあったそう。この言い回しは、彼のイメージと内的運動感覚のカップリングによるバッティングに起因するものだと著者は分析。うーん、難しい。

 そんな「イメージと内的運動感覚のカップリング」へ個人的な理解を書かせてほしい。元来「イメージ」と「運動感覚」は別物である。頭で思い描く動きと実際の動きが全然違うことは、特にスポーツ経験者ならよくわかると思う。しかし松井選手はこの2つを異常なまでにリンクさせていたのだと思う。これが「イメージと内的運動感覚のカップリング」が指すところではなかろうか。ある球種、あるコースの球を完璧に捉える「イメージ」と「内的な運動感覚」が一致することで、思い通りに体が動き、あのバッティングが生まれる。だからこそ、「打てる球」=「イメージできて、なおかつ体も動く球」が来ないと、打てないというわけだ。あってるかわからないけれど。

 これとは対照的なのがイチロー選手。彼に関して著者は「感覚的認知と身体行為のカップリングの回路がいくつもある」と評する。こちらに関してはわかりやすい。球を認知して、それを打ち返すための動作方法の引き出しがたくさんあるということだろう。松井選手と違って予測というか、予備イメージを持つのではなく、対応可能性を広くとった結果があのバッティングに現れている。

 

ネコ

 谷崎潤一郎、内田百閒、寺田寅彦、3者がそれぞれに書いたネコの描写をみると、面白いくらいに違う。谷崎はネコを見て「自分がどう面白いか」を、内田は「家族の一員のように」、寺田は「個体としてのネコを分析するように」書いている。

 これがどう哲学的、認知心理学的な問題に繋がるかはさておき、この間読んだ内田百閒とこんなところで出会えるとは思いもよらず感動した。こういうことが起こるから新書と小説は両方読むに限る。

highcolorman.hatenablog.jp

 

遂行的イメージ

 狭い通路を通ろうとする時を想像して欲しい。あなたは自然と身体を斜めにしているのではないか。これは自らの「身体」イメージがあるからだ。つまり人は自分の身体について、ある程度明確なイメージを持っているのだ。だからわざわざ身体の大きさを目で見なくとも、「狭い通路を通り抜けられる身体の向き」を作ることができる。これは顔についてもそうで、人が撮った自分の写真を見た時、「写りがいい」「悪い」「5割まし」とか言えるのも、自分の顔にイメージがあるからだと言える。自分の顔を直接見たことがある人はいないのに、である。人は生涯、鏡ごしや映像でしか自らの顔を視認できない。

 

おわりに

 本当に読み応えがある本だったので、思わず途中で寝てしまった。何かをやりながら不意に眠ってしまうのは久々だったので、どこか懐かしい気持ちになった。不意に眠ることを「落ちる」と名付けた人はすごい。見事に居眠りのイメージを捉えている。

 

 

 

きげんのいいリス

きげんのいいリス

 

はじめに

 意表をつかれるタイトル。新潮社「きげんのいいリス」は、オランダの作家で医師、トーンテレヘンの著作を長山さきが翻訳した本である。現代を忠実に訳すと「ほとんどみんなひっくり返れた」となるようだが、あえてこのタイトルを付けたのはなぜだろう。

 なんにせよ、この穏やかなタイトルでなければ目にとまることも読もうとすることもなかったと思うので、長山さん万歳である。

 

全体をみて

 動物たちがおしゃべりをし、お茶をし、手紙を書く。本書で描写されるのはただそれだけである。素朴で穏やかなリス、考えすぎで寂しがりやのアリ、木登りが好きでドジなゾウ、浮かぶハリネズミ…個性豊かで温かな動物たちは、いつも何かを喋っている。その会話は抽象的で哲学的なようでもあるし、癒しをくれるなんでもない会話でもある。この作品から何を受け取るかは十人十色であり、だからこそ多くの人に愛されるのだと思う。

 以下、好きな場面。

 

頭が重い

 アリはある日、頭が重いことに悩む。自分が多くのことを知りすぎているから、こんなにも頭が重いのだろうと結論づける。歩き疲れ、頭を地面に突っ伏したところ、リスが通りがかる。「これからどうするの?」。アリは答える。「何かを忘れるしかないんじゃないかと思う」。リスは言う。「じゃあ、僕のことを忘れてみたら?」。そうしてリスのことを忘れた途端、アリは嵐の中の羽みたいに宙に飛んでいく。

 なんて素敵なお話。アリとリスは本当に仲良しで、アリの頭の中はいかにリスでいっぱいかがわかる。これはリスからしても同じことなのに、困るアリへ「僕のことを忘れたら?」と言える優しさと言ったら。

 この後すぐにアリは落ちてくるんだけど。

 

「今晩」をとっておく

 アリが持っている小さな黒い箱には思い出をとっておくことができる。そんな箱に、星を見て、ハチミツを食べながらリスと話した「今晩」をとっておくことにする。

 詩的。誰にでもとっておきたい日があるんだろう。

 

もしきらいになったら

 ゾウは言う。「もし、リスのことがきらいになったらね」。森の上を振り回して、海に放り投げる。帰ってきてもその先の山にまた放り投げる。洞窟に閉じ込める。

 ゆったりしていて優しそうな口ぶりのゾウが話す内容にゾッとする。え、、ゾウ、、急にホラーテイスト、、。でも最後にゾウは言う。「ぜったいにきらいになったりしない」そういう問題?

 こんなに不条理な会話をされても、リスはゾウにお茶を出すし、おかわりも用意する。穏やかなゾウにひめられた破壊衝動や、それを黙って聞くリスのアンバランスさがクセになる。

 

うん。ア

 アリに手紙を出そうとして、カバノキの皮に書き始めるリス。思ったよりも皮が小さく、途中までしか書けなかったけれど、「アリなら」と思って風に託す。アリはわかったようなわかってないような返事をよこす。不安になったリスはもう一度手紙を出すことにするが、手元には小さな切れ端しかない。「アリ、あそびにくる?リ」これでわかってくれるだろうか。さっきよりもっと短いけれども。しばらくして、風が手紙を運んでくる。そこには「うん。ア」と。 

 こんなの純文学じゃん。

 

灰色の食パンです

 風の強い日、ゾウは自慢の鼻を吹き飛ばされてしまった。鼻のない自分など「まるで灰色の食パンだ」と落ち込むゾウ。カミキリムシの家を訪ねた際には「灰色の食パンです」と。自分の姿があんまりにも恥ずかしいので、ゾウを名乗ることも嫌になっていた。そんなゾウを「どうぞおはいり、灰色の食パンさん」と迎え入れるカミキリムシ。

 この作品では誰も相手のあり方を否定しない。励ましたり、不思議に思うことはあっても相手がそういえばそうなのだ、と納得する。疑いの入り込む余地はない。だから、相手が自らを「灰色の食パン」だといえば、そうでしかない。

 このシーン、1回目に読んだときは「灰色の食パンです」と名乗るゾウに大笑いしてしまったけれど、2回目以降はなんとも温かい気持ちになる。欠点を瞬時に受け入れ、名前まで変えられるゾウは素敵だな、と、

 

おわりに

 ここで書いた意外にも、「リスとタコのお茶会」「アリの失踪」「紅茶との会話」など、印象的な出来事が多かった。アリのままに生きる動物たちの突拍子もない日常を読むだけで、なんだかこちらも穏やかな気持ちになるから不思議である。

 物語の最後、リスは冬眠につく。どうか穏やかに眠れますように。きげんのいい目覚めが再び訪れますように。

 

 

 

 

夜しか開かない精神科診療所

夜しか開かない精神科診療所

 

はじめに

 大きなストレスを感じたことがない。どちらかと言えば気楽な性格だし、小中高大とことさらに負荷の高い環境にいたこともなかった。小学生の時に1度人間関係で悩んだような記憶があるけれど、それだって今思えば些細なものだ。自分と精神病は全く無縁だと今でも思っている。

 けれど社会人を目前に、ほんの少しだけ不安がある。これまで比較的穏やかに生きてきたから、「働いて生きていく」のは未知の領域だ。まあ大体の学生がそうであろう。

 それで少しでもストレスや精神病のことを知ってみたくて、片上徹也著「夜しか開かない精神科診療所」(河出書房新社)を読んだ。鬱やストレスのことを少し知りたいだけだったので、難しい学術書や新書などは避けようと思い、この本に行きついた。

 

全体をみて

 タイトル通り夜7時〜23時にだけ診療を行う「アウルクリニック」を開業した、片上徹也さん。彼が診療を通して感じたこと、患者、夜にだけ診療をする理由などが綴られた1冊。改行が多く話し言葉の文章なのであっさりと読めるし、著者がメディア露出に慣れている唐戸廊下、その語り口も柔らかである。

 以下、気になったところについて。

 

人は暇な時間が多すぎると心を病む

 社会生活を営む人間は「やること」があり、それを生きがいにしている生き物である。だから「やることがない」と生きがいが生まれにくく、病みやすい。著者が昼間に勤務する病院では、毎朝決まった時間に起きて運動をするのが決まりだそう。これもきちんと定期的に「やること」を作る工夫なんだとか。

 確かにある程度何かに追われている時は余計なことを考えることがない。考えすぎて気分が悪くなるのは大抵ベッドでひとり横になっている時だ。社会活動はストレスがかかるものでもあるが、それは人が生きる上で当たり前のことであり、適度なそれはむしろ必要なのかも。

 

くも膜下出血

 研修医期間を終えた直後、著者はくも膜下出血に倒れ、10時間もの大手術から生還。きついリハビリの後、左手が動かなくなるものの医師として復帰した。「そんな自分だからこそ、弱さを抱える患者に寄り添える」と思い、アウルクリニックを続けているそう。

 自分のきつい経験を人助けにモチベートできるとは、本当に素敵な方である。

 

8点

 片上先生の診療では患者に「今の自分は10点満点で何点ですか?」と尋ねることがあるそう。多くの患者はこれに1点とか2点とか答えるわけだが、これが8点までいくと「治療終了」のめやすになるようだ。 なぜ10点ではないか。

 精神状態の治療は7〜8割を良しとしなければ、治療にはキリがないためである。「あと少し」を気にして薬を増やそうものなら、症状が悪化することもある。多少の不足があるのも人生であり、患者さんが自ずから「8点」と言えれば、それで十分なのだ。

 常に完璧を期すのは大事だし、仕事などはミスが許されない部分があるのは当然だ。けれど「人生」という大きな尺度で見れば「8点」あれば上々なんじゃないかな。

 

ブリーフセラピー

 臨床心理士が使う治療法の中で、「問題の解決方法に焦点を当てる」やり方のこと。例えば「眠れない」という患者には「なぜ眠れないのか(原因追及)。」ではなく、「眠れた日はあるか(例外探し)」「どんな工夫をしてみたか(解決努力の確認)」等の質問を投げかけるそう。

 原因を究明するのは課題解決に重要だが、結局は解決方法がわからないと改善できない。むしろ精神疾患において「原因」は辛い出来事が伴っていることが多く、思い出したところで嫌な気分になるだけのことも。だからこそ「できること」を積極的に探すやり方があっている患者もいる。ブリーフセラピーはこんな時に使われる。

 ミスをした時原因ばかりを探し、当時の自分を反省したり後悔したりって、一見建設的に見えてそうでもない。過去には戻れないのだから、改善策を考えよう。

 

境界性人格障害

 精神疾患の1つとして名前はよく聞くが、実態を知らなかった病気。ざっくりいうとこの障害は「自分の不安定な精神状態に他者を巻き込むことでバランスを取ろうとする」ものだと言えそう。

 これ、けっこう多くの人が無意識にやってるような気もする。

 

おもしろいことはやってみよう

 部活のようなノリで運営されるアウルクリニック、これまでの常識に捉われない診療方法など、著者は「おもしろいこと」に積極的にチャレンジする。そんな彼は、教育現場にも薬の実験のような検証的試験を持ち込んでみては、と提案。

 今後教育分野にも携わりたいという野望?を持つ片上先生らしい提案である。ちなみにこのような実験は「学力の経済学」(中室牧子著)に詳しいので、著者には是非読んでほしい。やってるところありまっせ。 

 個人的な話をすると、この本には思い入れがある。高校2年の時、仲の良かった国語の先生が「君はこの本面白がると思うよ」と急に貸してくれたのだ。ご年配ながら溌剌とした女性の先生だったが、なぜ突然、しかも自分にだけ本を貸してくれたのかはよくわからない。思えばあれが学術系の本デビューだった気がする。その後先生には、高校3年の春、自由登校期にも大学入試用の小論文添削をしていただくなど、長いお付き合いとなった。お元気でしょうか。

 

おわりに

 ほんの少しだけ精神疾患への理解が深まったように思う。思いがけず高校時代を思い出すこともできて良かった。