森の雑記

本・映画・音楽の感想

映画 夜は短し歩けよ乙女

映画 夜は短し歩けよ乙女

ナカメ作戦と腐れ大学生

 

はじめに

 日に日に暑さが増していくこの頃、長袖はもう役立たずになった。日が出ている時間も長くなるばかりで、夜は少しづつ短くなっていく。以前にも書いたけれど、僕にとって夏と言えば、高校時代の京都旅行の季節であり、森見登美彦先生の季節だ。そんな先生に置かれては、この間、「四畳半神話体系」の外伝新作、「四畳半タイムマシンブルース」がカドブンにて掲載されることを発表された。なんとも喜ばしいことだ。ということで、短くなってきた夜をおしみながら、映画版「夜は短し歩けよ乙女」を視聴。

 

全体をみて

 原作を最後に読んだのが中学生の時だったので、原作と映画の違いにはあまり気づかなかったが、どうやらそこそこの改変がなされているらしい。それでも火鍋のシーンや偏屈王のシーンなど、物語の核になる部分はおおよそ同じだった気がする。上映時間は1時間半ほどでコンパクトだ。やや難解に感じられた(中学生の読解力では)原作だが、映画ではコミカルに、リズミカルに物語が進行するのであっという間に見終えてしまった。以下、原作の4つの章に従って感想を書く。

 

春 夜は短し歩けよ乙女 (VS李白編)

 今作の導入であるとともに、作品の魅力が凝縮されたパート。学園祭事務局長の声が神谷さんだったり、中村佑介さんの絵が動いたりといろいろな場面に興奮させられる。祇園祭りのようなにぎやかな画面を、ディフォルメされた登場人物が動き回る姿は圧巻。飲み物を飲む登場人物の喉とおなかが膨れ上がる表現は何ともチャーミングだ。

 この編の中でもバー「月面歩行」で、「偽電気ブラン」の話をした後、東堂さんが黒髪の乙女に「自分にとっての幸せを問い続けることを忘れるな」と叫ぶシーンは随一で、じんと来るものがある。

 また、乙女が母から(原作では姉だった気がする)「お友達パンチ」を教わった際に言われた、「世の中に聖人君子はほんのひと握り、残るは腐れ外道かドアホ、もしくは腐れ外道かつドアホ」というセリフには何とも森見っぽさを感じる。

 

夏 深海魚たち (下鴨納涼古本市編) 

 乙女のために先輩が絵本「ラタタタム」を求めるパート。

 原作でも印象的だった「火鍋」のシーンが見事に映像化されていた。読んでいる側も暑く、苦しくなるような場面で先輩たちの唇がはれ上がっていく姿は、まさに深海魚のよう。

 

秋 ご都合主義者かく語りき (学園祭編)

 この映画でもっとも盛り上がるパート。ゲリラ演劇「偏屈王」を中心に進む物語はミュージカル的な演出で彩られ、原作がテンポよく、ハイテンションで再現される。

 「同じ阿保なら」のセリフが先輩の口からとびだし、演劇に出演する乙女のもとに飛び込む場面で見せ所への階段を駆け上り、ボルテージは最高潮に到達。

そして総番長一世一代の告白の後、鯉が頭に落ちる場面はなんとも心に響く。コミカルかつロマンチックな物語は、そのまま乙女の恋心と波長を重ね、クライマックスへと向かう。

「ショーマストゴーオン!」

 

冬 魔風邪恋風邪 (お見舞い編)

 起承転結の「結」。京都の人々が風にかかり、町から人が消える描写はとても他人事とは思えない。このパートでは、憎いくらい気の利いた言い回しがバンバン飛び出るので気が抜けない。

 乙女の「数時間前、同じ夜のことです」のセリフからは、作中の出来事がたった一晩であることを読み取る(聞き取る)ことができる。原作では一年間の出来事だったから、このセリフは一年を90分で視聴する僕たちへのメタファーになる。

 李白さんが「夜は短し歩けよ乙女」と乙女を送り出した際、吉井勇「ゴンドラの唄」が場面では胸がいっぱいになるような高揚感を感じられる。

 「奇遇ですね」「たまたま通りがかったものだから」乙女と先輩の間で繰り返され続けた会話が、「たまたま通りがかったものですから」「それは奇遇だね」と逆転する演出にもうならざるを得ない。

 こうしていくつものしゃれこんだセリフたちが作る物語は、二人が喫茶店で待ち合わせるところで幕を下ろす。先輩にとっての幸せ、黒髪の乙女にとっての幸せは、きっとこの後も問い続けられるのだろう。

 

おわりに

 映画を見終わり、エンドロールを眺めていると、ネットフリックスの仕様でエンドロールが終わらぬうちに別の作品がはじまってしまった。戻ってエンドロールをみようとするも、絶対に途切れてしまう。どうしたらいいんですかね。

 なにはともあれ、原作にも8年ぶりにチャレンジしてみたいと思った。