森の雑記

本・映画・音楽の感想

世界は宗教で動いてる

世界は宗教で動いてる

 

はじめに

 自分が息をひきとる時を考えると、多くの日本人は同時にお葬式のことを思い浮かべるのではないだろうか。そして葬儀について、大多数の人が仏教式のお経やご焼香を伴うものを想像する。だが、その宗派は?と聞かれると、答えられない人も少なくないだろう。これは世界的に見ても珍しく、「死」という大きな節目の出来事に関して、そのセレモニーの方式を知らないのはさぞかし珍妙に感じられるところであろう。

 死という例をとってもわかるように、日本人は宗教に関しての理解に乏しい。文化的な理由、地理的な理由がその背景には考えられるが、もう少し宗教についての知識を持ってもいいような気がする。信じるかどうかはおいておき、世界に大きな影響を与えうる「宗教」について学ぶのが、今回紹介する本が目指すところである。

 

全体をみて

 本書は、橋爪大三郎さんが行った講義を文章化したものである。講義がもとになっており、文章がですます調であるため非常に読みやすい。また、聴講生からの質問もところどころに掲載されており、疑問を解消してくれたり、その視点があったか、と気づかされたりするので、前のめりになれる。

 

第一講義 ヨーロッパ文明とキリスト教

 宗教を語るうえで、この宗教を無視する人はいない。そんなキリスト教については講義2回にわたる説明がなされる。その1回目は宗教改革以前のキリスト教について。

 基礎的な説明はさておき、興味深かったのはユダヤ教キリスト教の違い。ユダヤ教においては多くの預言者が神の言葉(聖書)をもとに教義、律法を作り、人々はこれに従う仕組みができていた。それに対しキリスト教は、「イエス」という謎の男が預言者の域を踏み越え、神の言葉に解釈を加え説明する。論は筋が通っており、人々は困惑しながらも惹かれていく。これまでの預言者とは違い、偽物か本物かもわからない彼に。この例として挙げられるのが有名な言葉、「安息日のために人があるのではない、人のために安息日がある」。神の言葉にイエスなりの解釈を施したのだ。

 この謎の男に追従する人々が増え、多くの信者が集まった。そして十字架にかけられたのち、復活。ここではじめて謎の男が神そのものであったことに気づく。というのがキリスト教のストーリーだ。と筆者は説明する。

 イエスが単にユダヤ教預言者でなく、メシアとして人々に受け入れられたこの理由には、シンプルながら説得力があり、なるほど、と思わされた。

 

第二講義 宗教改革アメリカの行動原理

 キリスト教に関するパートの第2回目。今度は宗教改革以降について。

 迫害されたユダヤ人とカナンの地、ピルグリムファーザーズと新大陸、この二つに「約束の地」のモチーフが共通している。神が正しいものに場所を与える、という考え方は新旧の聖書で変わらない。アメリカとユダヤの相似を示す解釈と、現在の情勢(アメリカはイスラエルの最大支援国)を考えると、偶然とは思えない。このくだりで出てきた、「でもアメリカには先にネイティブアメリカンがいました」という質問とその答えにもうならされる。

 また、パートの半ばではジャーナリズムの監視機能と宗教の関係にも触れており、こちらの考え方も参考になる。

 

第三講義 イスラム文明の世界

 3回目の講義は、ユダヤ教キリスト教と同じ神を信仰の対象とするイスラム教について。前2つの宗教を信じる人々を「啓典の民」として丁重に扱う彼らに迫る。

 このパートで驚いたのは、元来シーア派スンニ派はお互いに寛容で、有り体に言えば「仲良し」だということ。なんとなく自分の感性では、激しく対立しあっているような気がしていた。(実際、世界史では両派の対立はよくある)しかし、イスラム教はそもそも寛容で平和なもので、「ムスリムは1つ」と考える宗教だというから驚きだ。

 「ジハード」も日本語ではしばしば「聖戦」と訳されるが、もともと戦うという意味はなく、単に「努力」と訳されるべきだと筆者はいう。ISの台頭など、一部のムスリムによってなんとなく過激なイメージがあるが、彼らは本質的に穏やかで敬虔だそう。このイメージ転換を学べたことは非常に良かった。

 

第四講義 ヒンドゥー教とインド文明

 これは有名な話かもしれないが、ヒンドゥー教において他教の神々はヒンドゥーにおけるある神の「化身」だと捉えられる。こうした体系によりヒンドゥー教は文字通り「全て」を内包する。昔読んだ「ささみさん@がんばらない」という小説においてこの話が繰り返し出てきたのを思い出した。

 この内包に関して火花を散らしたのが仏教。神より仏を上位に考える仏教とヒンドゥーはそりが合わない。インドの神々がブッダの悟りを応援する、という構造で土着の神を「おろす」仏教に対し、「ブッダも神の化身」と考えることで仏をおろすヒンドゥー教という二つのかかわりについての話は、水かけ論っぽくて面白い。争いに敗れた仏教は場所を変え、普及することになる。

 

第五講義 中国文明儒教・仏教

 儒教を宗教ではなく「政治と教育」の体系だととらえたり、、その基には中国の地政学的な「政治重視」の姿勢があると分析したり、ほかのパートとは少々毛色がことなる回。「中国」という国名の歴史が浅いことを引き合いに、そもそも「真ん中の国」という意味だから厳密には国名じゃない、みたいな解釈が出るなど、読んでいて飽きない。

 

第六講義 日本人と宗教

 読みながらこのパートを一番楽しみにしていたけれど、神道天皇、天照などについてはごくごくあっさりと説明され、大半は本居以降の儒教江戸幕府について。がっかりした。だが、日本人の気風に合わせてどんどん形を変える仏教を追うのは、早回しで神話を見るようで楽しめた。

 

おわりに

 聖武天皇の大仏建立然り、魔女裁判然り、その昔、人類は宗教で疫病に立ち向かった。その是非はさておき、宗教に救いを求める気持ちはわかる。宗教的意識が低い僕からすれば、どの神様でもいいので、COVID19の一刻も早い終息を実現してほしい。それには自粛生活を続けることと、祈ることしかできない。