森の雑記

本・映画・音楽の感想

西の魔女が死んだ

西の魔女が死んだ

 

はじめに

 塾で中学生を教えていたら、模試の国語で「西の魔女が死んだ」の一節が登場した。鶏が登場する部分を読み、この物語を全部読んでみたいと思った。塾講師をやっているとこういう出会いがあるので助かる。

 新潮社発行、梨木香歩著。

 

全体をみて

 タイトルとは裏腹に、暖かくて色彩豊かな物語だった。モノクロの文章を読んで温度感や色鮮やかさを感じられるのって、すごいことだと思うんです。

 以下、好きな場面。

 

冒頭 

 素晴らしい作品は書き出しから素晴らしい。「吾輩は猫である」「青春ポイントの話をしよう」「これは私のお話ではなく、彼女のお話である」、、、。

 この作品だって名作たちに負けていない。「西の魔女が死んだ。4時間目の理科の授業が始まろうとしているときだった。」なんとも味わい深い。

 もしあらすじを知らずにタイトルをみたら、本作がファンタジー小説なのか、それともリアリティ小説なのか判別するのは難しい。「魔女」というワードは現在比喩でしか使われず、言葉が意味するところは判別しにくい。僕らはドキドキしながら最初のページを開くのだ。

 そこに出てくるのは、タイトルと同じフレーズ。まだ分からない。そして次の文章、ここで僕らはほっとするのだ。ああ、この小説は現実が舞台なのだなと。それでも違和感は拭えない。魔女?4時間目?いったいこの小説はどこに向かっていくのだろう。たった2つの文章だけれど、ワクワクをくれる、最高の冒頭である。

 

「マイ」サンクチュアリ

 病気の療養をしつつ、祖母の家に居候を続ける主人公のまい。彼女は祖母から土地をもらう。林の中にある小さなギャップ。柔らかな陽が差し込むその場所を、祖母は「マイ・サンクチュアリ」と呼ぶ。

 ダブルミーニングにいくつもの意味が重ね合わされた素晴らしい言葉。一人称所有格は誰にとっての一人称か。それともまい自身に祖母は「聖域」を重ね合わせたのか。主人公の名前はこの場面のみならず随所に効いてくる。

 

確かに起こること

 魔女は前もって起こることを予知できる。けれど、祖母はあえてそれをしようとしない。だから、祖母は先に起こることわからない。そんな祖母にも一つだけ、確実に予知できる未来がある。それは魔女でなくとも、人間になら誰だってわかること。

 梨木さんはこんな風に「死」を匂わせておいて、僕ら読者に準備をさせる。ここまでくると、タイトルの意味もこの本が迎える結末もおおよそわかる。ああ、くるぞ、と。

 だけどこの本はどこまでもやさしい。この次の場面「その時」が訪れるのは「魔女」ではなく「雄鶏」である。これはこれですごく悲しいのだけれど、まだ耐えられる。例えるなら、プールに入る前、体に水をかけて冷たさに慣らすとき。冷たい事に変わりはないが、これがある事によって入水時の衝撃は和らぐ。

 

後半

 本書の中盤はずっと穏やかな文調である。ぼんやりと柔らかい光の中、まいがすくすくと成長していくのがわかる。しかし後半〜終盤、物語は薄暗い雰囲気に包まれる。雨模様の描写が多くなり、不穏な空気が漂う。それはまるで祖母の故郷イギリスのように。

 

おわりに

 ここ最近読んでいなかったけれど、やっぱり小説はいいなと。新書やビシネス書と違って自分で解釈しながらじっくり読める。

 本書にはまいのその後を描いた「渡りの一日」が収録されているが、そちらも是非読んでほしい。こちらも冒頭に「母親の順子さん」というフレーズがあり、こちらもいろいろ考えさせられる。普通母親のことをこんな風には呼ばない。ってことは、、、みたいな。