森の雑記

本・映画・音楽の感想

メディア論の名著30

メディア論の名著30

 

はじめに

 たくさんの本との出会いをもたらす本がある。和田誠「装丁物語」、筒井康隆「短編小説講義」、「岩波新書解説総目録」、こうした類の本を読めば僕たちはまた新しい本を知ることができる。友人に知人を紹介してもらうような感じである。

 佐藤卓巳著「メディア論の名著30」(ちくま新書)も、前述した本のうちの一つと言えるだろう。

 

全体をみて

 全30冊のメディアに関する本を軽妙に語る一冊。毎回著者のエピソードトークが枕に置かれるのでとっつきやすいと思う。ただ、扱うのが「メディア論」という比較的新しい学問の本なので、聞き慣れない専門用語が出てくるなど中身ついてはけっこう難しい記述も多い。ほどよく読み飛ばすのがいいだろう。

 以下、30冊の中から気になった5冊について。

 

「消費社会の神話と構造」

 大衆社会におけるメディアと消費の関係を論じたボードリヤールの書である。自身の体を「メディア」として捉えるところに面白さを感じた。 

 筋トレ、脱毛、美容整形、、ありとあらゆる「身体」をターゲットにした広告が増える現代を考える上で、読んで損はなさそう。また、消費を「差異化ゲーム」と評する部分も興味深い。先日塾で現代文を教えていたときに同じような記述を目にしたが、問題文の著者はボードリヤールを読んでいたのだろうか。

 

「ニュース社会学

 ニュースが「製造」されるジャーナリズムの現場をフェミニズム的視点から書いた1冊。「ジャーナリズム論」に関する本の多くは現場経験者がそれを批判的に記述することに終始するものが多く、いわば「俗流批判本」になっている、というのは本書の訳者鶴木さんの言葉。

 しかし著者のタックマンはこれを超え、優れたジャーナリズム論を展開する。「メディアが社会の現状を正当化する」という視点に目新しさはないが、ニュース製造現場を緻密にリサーチした本書には価値があると言えよう。

 「機能主義」は現状肯定に傾きやすい(例えば記者クラブ制度を機能主義的に捉えると、「社会システムの安定に役立っている」という評価を与えることができる)、という佐藤さんの指摘にも納得感があった。

 

「政治の象徴作用」

 メディアは政治の「舞台」になった、と考えたのはエーデルマン。投票は「儀式」に過ぎず、「参加している感」を演出するのみ、その証拠に一体どれほどの人が選挙の争点や各党のマニフェストを正確に理解しているだろうか、そんな問いを彼は投げかける。野党の強い批判はかえって与党の強いリーダーを印象付けることもある、という言説など、かなり悲観主義的な捉え方をしているところもいい。

 政治よメディアを考える上で、これは是非読んでおきたい。

 

「場所感の喪失」

 電子メディアが登場する前は、人が特定のことをするためには、特定の場所にいかねばならなかった。神の言葉は教会で、政治談議はコーヒーハウスで、といった具合に。しかし電子メディアの登場で、状況は変わる。もはや物理的場所にこだわる必要はない。メイロウィッツはそんなことを言う。

 メイロウィッツの記述で面白かったのは「非言語的ウソをつくのは難しい」という箇所。確かに口でウソをいうのは簡単だが、態度までウソをつき続けるのって難しい。「言語情報は意識的な制御が可能」という文脈で出てくる話だが、メディア以外の話にも応用が効きそう。

 

「読んでいない本について堂々と語る方法」

 タイトルを知って以来ずっと読みたいと思っていたピエール・バイヤールの本が最後に紹介された。

 彼は「我々が話題にする書物は、現実の書物とはほとんど関係がない」と言い切る。ある書物について大多数の読者が自分流に本を摂取して「うちなる書物」として取り込むが、これは同じ書物を読んだ他者とも、もっと言えば著者が思う書物へのイメージとも違う。であれば、我々は真に書物を「読んだ」と言えるのか。

 これまで読んだ本の中には途中を端折ったり、恣意的に解釈したりしたものもあったが、それでもいいのだ、と背中を押してくれそうな「書物」である。いつか読んでみようと思うけれど、しばらく本書にはこの勝手な解釈をしておこう。

 

おわりに

 いい本がたくさん紹介されたので、読もう読もうと思ってページをめくったが、最後の節を読んでなんだか安心してしまった。

 ここ1年は頭の悪いペースで本を読んできたけれど、そろそろ余裕もなくなってくる。読めなくなる前に、バイヤールの本だけは手に取りたいものだ。