森の雑記

本・映画・音楽の感想

台湾生まれ 日本語育ち

台湾生まれ 日本語育ち

 

はじめに

 久々に読んだエッセイがとても素晴らしかったので紹介させてください。

温又柔著「台湾生まれ 日本語育ち」(白水社)。

 

全体をみて

 本書は第64回日本エッセイスト・クラブ賞を受賞した一冊である。著者の温さんはタイトルの通り、台湾で生まれ、幼少期に日本へ移住する国籍上の「台湾人」である。(この台湾人呼称については「二つの中国」にまつわる問題はひとまず脇において欲しい。)しかし人生のほとんどを日本で過ごした彼女は、物事を考えるのも、話すのも、書くのも全て日本語である。けれども生まれてから数年は台湾で台湾語を話していた。さらに両親は中華民国中華人民共和国の間に揺れた時代を生きたので、中国語も話す。もっと言えば祖母・祖父は日本統治下の台湾に住み、日本語を話す。

 こんな具合に彼女は絡み合った3つのルーツを持つ。日本、台湾、中国いずれにも染まりきらないマーブル模様の人生を行く彼女の感覚。このエッセイを読めばその感覚がありありと伝わってくる。国家、世代、戦争、戦後の日本に生まれ日本に育った僕が決して得られない想いを伝えてくれる良書だった。

 以下、好きな部分について。

 

言語を忘れる寂しさ

 幼少期日本に渡った温さんは、次第に日本語を習得していく。一方母は台湾語、中国語をメインに話す。家での会話はお互いに違う言語が使われた。

 だんだんと自分の中の「台湾語」「中国語」が薄れていくことに、温さんは「さみしかった」と言う。人生で初めて話せるようになった言葉を失っていくのは、心にどれほど影響を与えるのだろう。日本語しか使わない僕には想像することしかできないけれど、かなりの喪失感があるのだと思った。

 高校で学んだイスラーム史や三角比を忘れることすら怖いのに、思考の基礎をなす「言語」を忘れてしまうことはさぞ怖かったのでは。

 

台湾総統選挙

 温さんは国籍上日本人ではないため、幼少期から過ごす日本では選挙権がない。しかし台湾での選挙権はある。この選挙権に関しても強く疑問を覚えることがあったそうだが、ともあれ台湾の選挙に票を投じる決意を固めた温さん。しかし、選挙の直前に在留条件を満たしていないことがわかり、その年の総統選挙に限って投票できないことがわかる。わざわざ台湾に「帰る」段取りをしていたのに。

 それでも彼女は台湾へ渡り、選挙を間近で見る。ビジネスをする親族の投票先は、もちろん中国との関係を重視する国民党の馬英九。そんな話をしていた親族一同での食事会、テーブルにある声が。「女の総統が誕生しても素敵だなと思う」「もちろん冗談だけど」声の主は叔母だった。女の総統とはもちろん、台湾の現総統、民進党蔡英文のことである。対して叔父は「お前の冗談は世界つまらない」と一蹴。笑いが起こったものの、温さんには思うところがあったよう。

 国家と選挙権、イデオロギーという難しい問題に加え、性別のファクターも加われば、もはや「正しさ」とは主観でしかない。多くの要因が表面化したこの会話を切り取るのは素晴らしい感性だと思う。

 

母語母語、娘語

 前述の通り、台湾では戦前、戦中、戦後でメインとなった言語が違う。さらに温さんは幼少期に日本へ渡っている。だから彼女の親族では日本語、台湾語、中国語3つの言語が入り混じる。 

 母と同じ言葉を使えないこと、なぜか祖母とは日本語で意思疎通できること、そんな当たり前は、僕らから見れば全く不思議な光景だ。 

 この部分に登場する、別の家庭の描写も鋭い。祖母と母は台湾、中国語を話し、幼い娘が日本語を話す、温さんとは少し違うねじれ方をした家族のエピソードがある。揺れるブランコに近づく孫が、祖母の「ダメ」という日本後に対し、「おばあちゃんが日本語しゃべった!」と怒られたいるのにもかかわらず嬉しそうにする場面である。

 これを聞いた母と祖母はどんな気持ちになったのだろう。嬉しくて、もっと日本語を勉強しようと思っただろうか。それとも孫と違う言葉を使い、コミュニケーションがとりにくいことを嘆いたのだろうか。いずれにせよ、大きく心を動かす一言だったことだろう。

 

英語が苦手

 今度は少しライトな部分。

 英語が苦手だという温さんは、「ハロー、と言ったら、次にはもうグッバイと言いたくなる」そう。こういうユーモラスな表現はなんだか真似したくなる。

 

 温さんには妹がいる。彼女は日本で生まれ、日本で育った。そんな彼女は母の台湾語、中国語、日本語が混ざった話し方を「かわいい」といって憚らない。幼少期の温さんは母の歪な話し方を嫌っていたのに。

 姉妹が大人になり、妹に子供ができた頃、温さんは妹の娘に絵本を読んであげた。その時温さんの母が言った「ママ、それしなかった」。一瞬緊張が走るが、妹はそんな母の言葉を笑い飛ばす。「ママったら」。

 温さんはこの妹に救われてきた部分がすごく大きいのだと思う。母、姉、妹、三者三様のバックボーンをもち、部屋をすれば空中分解しかねなかった家庭を繋ぎ止める素敵な存在。

 

おわりに

 外国人参政権や移民の問題には、知識を持たず感情的な反応をしてしまうことがある。しかし建設的な議論をするためには問題の背景や実情を理解しなければならない。そういう意味でこの一冊は単なるエッセイの枠を超え、多くの分野における「理解」を促すものだと思う。