藤原道長の日常生活
藤原道長の日常生活
はじめに
「この世をば我が世とぞ思ふ望月の欠けたることもなしと思へば」
かの藤原道長が千年前に詠んだ和歌は、彼の尊大なイメージとともに多くの日本人が知るところとなった。歴史や古典の授業で彼の名前を聞かないことはないし、「大鏡」は多くの受験生を悩ませ、ときめかせてきた。
あまりに栄華を極めたエピソードばかりを聞く通常の教育ルートを経ると、道長に対するイメージはあまり良くならない。天皇を差し置いて摂政関白として活躍したり、豪華な殿を立てたり、見るからにステレオタイプな権力者である。
倉本一宏著「藤原道長の日常生活」(講談社現代新書)は、そんな道長への印象を変える一冊だ。今回は、自筆本が現存する彼の日記「御堂関白記」を分析しながら、人間としての「道長」を考察する本書について。
全体をみて
作者の主観も踏まえつつ、道長が残した記録を丹念に見ていく一冊だった。チャーミングでおおらか、心配性ながら徹底的、これまで全く感じたことのないシンパシーを道長に感じることができた。
本書を読む上でネックなのが、(素人目の)専門語句の多さである。除目、県召、前駆…この辺りのワードは古典を勉強していてばある程度わかるが、そのほか聞いたこともない固有名詞や位を表す用語が注釈なくひっきりなしに出てくるので、読むときにはスマホ片手でなければきつかった。
以下、面白かった箇所について。
言い訳
法性寺に寺額をかける際、揮毫を依頼された道長。その時の日記には「私は元々能書でない。度々、自分には無理であると伝えのであるが」(p42)と記されている。だが実際、彼の字は達筆と呼べる程度だと筆者はいう。
今でもまあまあ得意なことをやる前に「頼まれたから」「下手だけれど」と予防線を貼ることはままあるが、あれほど尊大に思える人物が我々と同じようなことを書き残しているとは、なんとも意外である。
除目辞退
除目は当時の人事を決める儀式のことだ。道長はこの儀式の執筆(除目の上卿=責任者)を度々辞退していたそう。この人事権という最強のカードを自ら手放したのには訳がある。
実際には辞退しながらも慰留を受け上卿を務めることが多かった道長。これをぁっmがえると、「慰留前提の辞退」の構図が見える。つまり、一度天皇に対し辞退を申し出て、そのときに慰留されるかどうかで「天皇の自分への信頼度」を測ろうとしているのだ。一条天皇は一度この事態を素直に受け止め、別の人物を当てたことがあるが、若かった彼は道長の思惑を斟酌できなかったのだろう、と筆者は言う。
別れる気もないのに「別れたい」と言うことで、相手の愛情を確かめようとする恋人みたいですね。
自律的馬流通システム
当時は貢物としてしばしば馬が贈られた。例外なく道長のもとにも多くの馬が貢進された。だがこの馬、道長自身が用いることはあまりなく、基本的には別のところに再度贈っていたそう。転送ならぬ転贈である。馬が入用になることが多い貴族社会において、自らの権力によって得た馬を大量かつ臨機応変に派遣することで、権力基盤を固める狙いもあったのだろう。
さらに驚くのは馬を備蓄する施設が「道長の指示なく」馬を贈っていたこと。気が利きすぎている。自律的に馬を集配し、再送するシステムを構築したところがすごい。
馬肉を食わされる
これに関しては全く道長とは無関係なのだが、意外と治安の悪かった当時、罪を犯して拘禁された内蔵有孝は、「馬肉を食わされる」恥辱を受けたそう。
現代からするとご褒美と思えなくもないのだが、時代変われば、と言うやつである。
大学生みたい
平安の貴族と言えば、優雅で自適な暮らしをしながら、時々和歌を読んで気楽に過ごすイメージがある。しかし実際には、度重なる形式的な会議や儀式、長時間労働、大酒、睡眠不足など、かなり不健康な生活を送っていたようだ。深夜まで祝宴で酒を飲み、そのまま翌日の仕事へ向かうこともざらだったそうで、なんだか酒を覚えたての大学生みたい。不健康だし、オールで一限行ったりするし。
おわりに
これまで持っていた道長像が大きく変わる一冊だった。より親近感が増したというか。
「この世をば」の歌もきっと嬉しくてたまらないときにキャッキャしながら詠んだのち、「でも私はあまり歌が上手くないからなあ」と言い訳をしていそう。