森の雑記

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千年後の百人一首

千年後の百人一首

 

はじめに

 小学生4年生の頃、僕のクラスでは毎朝百人一首が行われていた。全100首が20首ずつ5色に分けられた五色百人一首が使われていて、今月は赤色、来月は緑色といった風に月ごとで扱われる札が変わっていく。このルールのもと、生徒はリーグ戦を通して毎月優勝者を決めるのだ。

 この百人一首で、僕はほとんど負けることがなかった。多分全5回のうち3回は優勝したように記憶している。暗記も得意だったし、いわゆる反射神経的な能力にも自信があった。けれど、当時の自分は各首の意味に全くといって良いほど興味がなかった。文字の羅列を記号として暗記し、ひたすらカルタ取りに勝つのが楽しいのであって、この偉大な文学作品たちへの尊敬とは全く無縁であった。

 やがて中高の古文を通して和歌や日本古典に馴染むようになり、今ではきちんと意味を理解して百人一首を読むことができる。でもその現代語訳は、当時直感的に、なんとなくイメージしていたものとは全く印象が違った。色恋や古典常識もわからぬ少年にとって、あの文字たちはハイコンテクストすぎたのだろう。

 そんなわけで、今回はリトルモア発行、最果タヒ清川あさみ「千年後の百人一首」を読んだ。

 

全体をみて

 本書は最果タヒさんが各首を訳し、清川あさみさんがそれぞれにイラストをつけた、現代の百人一首本である。訳を超えた大胆な解釈をするタヒさん、想像力を掻き立てる挿絵を作る清川さん、どちらもこれまでにない形で百人一首を表現している。

 加えて、非常に細かいことだが、本書をよく見ると綴じ糸に桃色が使われていることがわかる。普通なら見えない部分にまで工夫がなされているあたり、こだわりを感じた。

 以下、百首のなかで気になった8首について。

 

2 持統天皇

 春過ぎて 夏来にけらし 白妙の 衣干すてふ 天の香具山

 春から夏への移り変わりを捉え、「時の流れというものを私は見たことがないのだけれど」と訳を始めるタヒさんが素晴らしい。古典の授業は大抵歴史的仮名遣いから習うが、その時「エ段+ふ」は「ょう」になると教わった。この時「てふ」が「チョウ」になる読みを例として出された人は、きっと僕だけではないはずだ。今回の「てふ」はそれとは違い、連語「という」が変化したものだ。けれど、なんとなく真っ白な衣が蝶のようにひらひらとたなびく様子を思い浮かべてしまう。

3 柿本人麿

 あしひきの 山鳥の尾の しだり尾の ながながし夜を ひとりかも寝む

 森見先生も「有頂天家族」で使った、「長い」を導く五七五が心地よい。長い夜に思い出したくなる歌。

 

17 在原業平

 ちはやぶる 神代も聞かず 龍田川 から紅に 水くくるとは

 個人的にはなぜか小学校の頃からこの和歌が好きで、最初に暗記した一首である。今は漫画の影響ですこぶる有名になり、好きな一首を聞かれるととても言いにくい。ミーハー感出るじゃないですか。本当に好きならそれに臆せず言えると思うので、まだまだ愛が足りないのかもしれない。

 川と紅葉を描いたこの一首だが、僕はなんとなくこの歌に死を連想してしまう。「水くくる」のフレーズはなんだか入水自殺のようだし、紅は血と同じ色である。色づいた葉が木から落とされる様子も、「神」の文字も、この世ではない場所を想像させる。清川さんのイラストには、水面にビルのようなものが映っている。葉が落ちる様子と高所から人が飛び降りる様子も、やっぱり似ている。

 伊勢物語主人公のモデルとも言われる彼はどんな気持ちで詠んだのだろう。

 

36 清原深養父

 夏の夜は まだ宵ながら 明けぬるを 雲のいずこに 月宿るらむ

 「月よどこへ」そんな気持ちが伝わってくる歌。柿本人麿が歌った秋の夜は長いけれど、清原深養父が過ごす夜は短い。彼は夏の夜が大好きなのだろう。

 

52 藤原道信朝臣 

 明けぬれば 暮るるものとは 知りながら なほ恨めしき 朝ぼらけかな

 訳を見る前から「めっちゃわかる」と思う歌。共感度NO1。どうせまた夜になるとはわかっていても、いつだって朝は辛いし眠い。寝起きのしんどさを歌ったのだろう。

 と思いきや、これは後朝を詠んだ歌なんですね。寝起きがしんどいのは眠いからではなく恋人と別れるから。夜になればまた会えるのに。そんな気持ちを詠んだものだった。けれど、一夜を共にした枕や毛布だって恋人のように恋しいので、どっちでも良いのかな、と。

60 小式部内侍

 大江山 いく野の道の 遠ければ まだふみも見ず 天の橋立

 百人一首最も有名なエピソードの1つを背景にする歌。小式部内侍の母が和歌の名人であったことから、彼女の歌は母が代筆したものではないかと疑われる。それをからかった藤原定頼に即興で返したのがこれである。掛け言葉、体言止め、歌など多くの技巧を凝らした上で、当意即妙にカウンターを食らわす彼女には大きな拍手を贈りたい。 

 だが待て、解説を読むと、どうやら藤原定頼は彼女と恋仲にあり、小式部内侍のために一芝居うったのだ、という説もあるそう。彼が恋人のために汚名を被ったのであれば、拍手は二人分せねばなるまい。

 

76 法性寺入道前関白太政大臣

 わたの原 漕ぎ出でて見れば 久方の 雲居にまがふ 沖つ白波

 船をゆっくりと漕ぎ出した先の絶景を想像できる歌。清川さんのイラストが見事。海に浮かぶ真っ白なものは、雲か、それとも波か。作者は「雲にまがうほどの白波」と考えるようだが、海が鏡のように雲を写しているのかもしれない。どちらにせよ、地平線をみれば、空と海はいつだって交差して見える。

 

81 後徳大寺左大臣

 ほととぎす 鳴きつる方を 眺むれば ただ有明の 月ぞ残れる

 情景、動きがありありと思い浮かぶ歌。僕らが想像する左大臣が振り向く様子は、きっと当時と同じだろう。たった31文字なのにまるで動画のようだ。鳥→人→月と移りゆく視点を表現する訳とイラストには流石の一言。

 

おわりに

 和歌というものは非常にエモーショナルだ。感情がごく少ない文字数に無駄なくパッキングされている。その一方で、和歌というものは非常にクールだ。大きく心が揺さぶられたであろう経験をたった31文字で、それも様々な技巧を凝らして表現するには、自らをきちんと客観視せねばできない。

 それはもしかしたらとても孤独な作業かもしれない。ひとり内面と向き合い、言葉を生み出す行為を今の僕らはどれだけしているだろうか。

もろともに あはれと思へ 山桜 花よりほかに 知る人もなし