森の雑記

本・映画・音楽の感想

新刊とブックカバー

新刊とブックカバー

 

 先月のことです。

 

 

 先日、敬愛する森見登美彦先生の新刊、文庫版「太陽と乙女」を購入した。これは、2017年に新潮社が刊行した単行本エッセイ集を同社が文庫化したモノである。新刊を発売日前から心待ちにし、発売当日に本屋に走る行為はとても久しぶりで、おそらく最後は3年も前のことではなかろうか。そして先月中ごろ、発売日を知ってからそわそわして過ごすこと数日、ついにその日がやってきた。

 

 当日、起きたのはお昼前だった。昼食すらも待ちきれず、最低限の着替えを済ませてから家を出る。まだ少し重いまぶたをゴシゴシしながら、最寄駅と接続されている駅ビルに向かう。目的地は当然駅の有隣堂である。有隣堂は地元では全く見られない書店で、東京にきて初めて知った。僕はここがけっこう好きだ。陳列やポップには本への愛が感じられるし、何よりたいていの店舗が広い。広い本屋となると地元では限られた数しかなかったから、都内なら大体どこにでもある有隣堂はお気に入りである。

 

 いつもなら目的の本がないままフラフラと立ち寄り、広大な本の森をウロウロ彷徨い物色する。しかし、今日は違う。僕は確固たるときめきを持って文庫版「太陽と乙女」を買い求めるのだ。そんな思いを心に、ビルのエスカレーターを登って有隣堂に入り、文庫新刊コーナへと向かう。そして見つける。おしゃれな表紙と分厚い横顔、まさしく「太陽と乙女」である。重みを確かめるように手に取り、お会計へ。

 

 列ができていたのでしばし待ち、「お待たせしました」と声をかけてくれた店員さんのレジへ進む。「935円です」「ブックカバーはご入用ですか」いつものセリフに、「お願いします」と答える。事件はここで起きた。

 

 かつて、有隣堂のブックカバーは茶封筒のような色と質感の生地に、「有隣堂」とプリントされた簡素なモノだった。そして僕はそのブックカバーが改変されたことを知らなかった。だから、「カバーはどれになさいますか?」と10色くらいある見本を見せられ、「これって有料ですか?」と間の抜けた返答をしてしまう。そのカバーはあまりにもちゃんとしていて、色合いもきれいだった。それゆえ、これまでの無料カバーが廃止され、有料版が導入されたと勘違いしたのだ。「いえ、無料ですよ」と笑顔の店員さんを眩しく思いながら、見本を指差し、「じゃあこの茶色いので」とお願いした。迷った時は茶色を選ぶのは僕のライフハックである。茶色はどんな場所でも他の雰囲気を邪魔しない。

 

 さて、お会計を済ませて店員さんがカバーをかけてくれるのを待つと、これがやけに早かった。わかる人にはわかるだろうが、一枚のブックカバーを本の形に合わせて折り、かつ表紙を端のポケットに差し込む作業はやや手間がかかる。店員さんは熟練なのだろうか、凄まじい速さでカバーをかけ終え、レジ袋に入った本を僕に手渡した。尊敬の念を持ちつつ帰宅する。

 

 そんなこんなで家に戻り、ホクホクした気持ちで収穫物の入った袋を開く。自宅の照明を通しても、茶色のカバーは品の良い色をしていた。しかし、ここで気づく。このブックカバー、端のポケットが存在していない。つまり、カバーは一枚の長方形の両端を本に折り込むだけのものだった。これは由々しき自体である。ブックカバーごときで何をおおげさな、とお思いかも知れないが、あのポケットがないとブックカバーはとても外れやすくなる。本にきちんと固定されないので仰向けで本を読むとカバーがプカプカ浮いてしまう。新ブックカバーは美しい外見とは裏腹に、なんとも微妙なモノであったのだ。

 

 僕はこのことがすごくショックである。かつての無愛想で無機質な、それでいて質実なカバーが恋しい。有隣堂のカバーはデザインと引き換えに(僕にとって)重要な機能を失ったのである。無料のブックカバーに文句を垂れる方が間違っているのは承知だ。それでもすごく悲しい。

 

 ややあって、本棚に「太陽と乙女」を並べた。上品な色合いのカバーは、同じような色合いの本棚に完全に調和している。まるで昔からここにあったみたいだ。これまでの茶封筒色のカバーが少し浮いて見えるほど。ディスプレイする分には、圧倒的にこちらのカバーの見栄えが良い。

 

 しかし、やっぱりかつてのカバーが忘れられずにいる。これからは少し遠いけれど別の書店を利用しようかとも思う。でも、上京したての頃からお世話になっている有隣堂を裏切りたくもない。一体どうすれば良いのか、まだ検討がついていない。森見先生の次の新刊、「四畳半タイムマシンブルース」の発売日は刻一刻と迫っている。

 「太陽と乙女」はまだ本棚から出せていない。