森の雑記

本・映画・音楽の感想

はじめて学ぶ民俗学

はじめて学ぶ民俗学

 

はじめに

 先日南方熊楠の本について書いたが、民俗学と言えばもう一人決して忘れてはならない人がいる。そう、柳田国男である。日本民俗学の開祖ともいっていい彼の功績は計り知れない。そのほんの末端ではあるが、倫理や国語の授業を通して、彼の活躍は多くの高校生の知るところとなる。この間熊楠の本を読んでから、「ハレとケ」の概念をはじめとして、彼や柳田の考える民俗学に感銘を受けた高校の頃を思い出した。そこで、ひとつ入門書でも読んでみるか思い立ち、今回はミネルヴァ書房出版「はじめて学ぶ民俗学」を手にとった。

 

全体をみて

 本書は入門書というだけあって、非常に平易な表現が多い。中身も「家族」「身体」など具体的な分類のもと、比較的短い解説文章が集められた構成になっている。また、各解説を様々な著者が書いているのも魅力である。一つのパートが読みにくくてもパートが変われば表現が変わるため、気を取り直して読めるからだ。前述のやり方があえてか偶然かわからないが、読む側が挫折しない工夫を随所に凝らした本書はとてもいい本だと僕は思う。

 以下、気になった部分について。

 

京都祇園祭の山鉾巡業 p81~

 伝統的なお祭りの担い手が、その地域の人では無くなってきていることが説明される。また、そもそも京都の祇園祭では、昔から山鉾巡業に関わる大工方や曳き手は町外から集まってきているそう。現在はその役割を地元の大学生が果たすことも多いようで、大学生であれば県外から下宿をする人も多いだろうから、やはり構造は変わっていない。

 伝統といえばその地域特有で代々引き継がれているように思われるけれど、これをつなげていくためには外の力が必要だろう。特に現代においては。伝統の担い手は地域人ではなくそのファンであることは、これからよりスタンダードになるのかもしれない。これを伝統の外部化とでも呼ぼうか。

 

ボカンスイライ p113~

 戦前に子供たちの間で流行していた遊び「ボカンスイライ」。子供が「大将」「母艦」「水雷」3つの役に分かれて闘うかけっこ的なこの遊びは、様々なバリエーションを持って全国に伝播した。発生源や伝播経路は不明。

 この章の著者と同じく、「ボカンスイライ」の音だけを聞いて「母艦水雷」の漢字を想像できなかった。戦前にこの謎の遊びが流行ったことはどこか不気味でもある。

 

カラスの鳴き声と不吉 p160~

 1699年の書物から、すでにカラスの鳴き声と凶事を結びつける傾向が見られる。多くの人が似たようない言い伝えを聞いたことがあるだろう。しかしこのパートではその因果関係を逆転させる考えが説明される。

 著者の主張は端的に、「カラスが鳴くと不吉が起こるのではなく、不吉が起こりそうな時にはカラスの鳴き声に耳がいく」と言える。確かに、先行きが不安な何かを抱える時、やけに周りの音が耳に入ったり、やたら煩く感じたりすることはある。言い伝えには人間特有の心理状態が反映される。それゆえ多くの人に受け入れられ、伝播するのだろう。

 

商品化される伝統 p256~ 

 現代の僕たちは、恵方巻やおせち、クリスマスケーキなど伝統行事をコンビニのフェアで知ることが多い。僕も自家製の恵方巻を実家で食べたことはない。おせちは祖母が毎年作ってくれていたけれど。近代以降、生活に資本主義の波が押し寄せた。それは伝統行事だって例外ではない。お正月に食べるお餅はスーパーで買うものだ。今や伝統は消費生活の対象になっている。

 これを良し悪しで語るのは民俗学の視点ではない。民間にどのような習慣が根付いているかをみるのがこの学問であり、あくまで単に現象を見つけ、その源泉や流れを辿るのである。

 

ヒノエウマ p297~

 1966年、干支でいうと丙午の年、日本の出生数は前年比で26%も落ち込んだ。これは干支の丙午(ヒノエウマ )が、あまり好ましく捉えられていなかったことが原因の一つにあるそう。このような俗信がこれほど大きな影響をもたらすこともある。著者はこれを「目に見えない黒い霧」と表現し、「世界史的に見ても例を見ない」と言う。

 科学的根拠のない言い伝えの影響の大きさにただただ驚いた。最初は「なんて合理的でないんだ」と思った。しかし、その年の出産が他者から祝福されなかったり、そこまでにはならなくとも陰で何かを言われたりするストレスを考えれば、「出産しない」選択はある意味で合理的なのかもしれない。1年出産が遅れてもそれほど大きな影響は出ないことが多いだろうし、せっかくの慶事に外野の余計なプレッシャーは相応しくない。

 

おわりに

 ありきたりな感想になるが、やっぱり民俗学は奥が深い。人々の私的な行動に焦点を当て、そのルーツや伝播を探るのは、なかなか骨が折れる仕事だろう。しかも、他の学問より実利に乏しい(と僕は思う)。では、なぜこんなことを研究するかと考えると、やっぱりそれは人間の「知りたい」という欲求が理由であろう。そして、こうした習俗を研究する姿勢そのものでさえ、民俗学の視野に含まれる可能性がこの学問の面白いところだ。