森の雑記

本・映画・音楽の感想

千と千尋の神隠し

千と千尋の神隠し

 

はじめに

 新型コロナウイルスが引き起こした事象のうち、数少ない正の影響として「ジブリ作品の劇場上映」がある。ウイルスは僕らに名作の数々を大スクリーンと大音響で味わう機会をもたらした。そのチャンスを逃さないよう、先日映画館に足を運び、「千と千尋の神隠し」を観た。

 

全体をみて

 これまで自宅の小さなテレビ画面でしか「千と千尋」を観たことがなかった。それも最後は中学生のころだったと思う。そのせいだろうか、知っているはずの物語なのに、あらゆる場面でいちいち驚かされてしまう。大きな音や画面、半分忘れかけたストーリー、どれもすごく新鮮だった。それでいて名シーンにはどこか懐かしさも感じられた。

 以下、好きな場面について。

 

①ハクって人、二人いるの?

 初めて出会った時とは態度がまるで違うハクを見て、千尋がリンに「ハクは二人いるの?」と尋ねる。対し「あんなの二人もいてたまるか」と嘆くリン。

 この場面がすごいのは、この後湯婆婆と湯婆婆の顔をしたトリ(湯バードと呼ぶらしい)が出てくるから。観るガワは「なるほど、二人いるのは湯婆婆の方か」と思わされる。魔法使いの湯婆婆であれば二人(一人と一匹)いてもおかしくないものね。

 だがしかし、これは伏線になっている。なわとその後、湯婆婆双子の姉、銭婆が登場するのである。物語のだいぶ序盤から、「銭湯」の名をそれぞれ頭に据える魔女たちの存在がほのめかされているのだ。

 

②腐れ神(川の神)

 「良きかな」でお馴染み腐れ神こと川の神様。彼に刺さったものを抜くために、みんなで綱引きをするシーンはド派手ながらも感動的で涙が出る。僕は弱者である千尋のようなキャラが、功績を挙げて認められる瞬間に弱い。扇を振り回して音頭をとる湯婆婆もかわいらしい。

 千尋の活躍できれいになった川の神は、龍へと姿を変えて油屋から飛び立つ。その姿は真っ白で実に神々しい。そして、龍になった時のハクによく似ている。これによってハクも「川の神」であることがほのめかされる。千尋はしばらく昔ハクと会った時のことを思い出せずにいるけれど、この場面から少しづつ記憶を取り戻しているのかもしれない。

 

③おにぎりと苦団子

 「センチヒ」屈指。千尋がハクからもらったおにぎりを泣きながら頬張る場面と、千尋が川の神からもらった苦団子をハクに無理やり飲み込ませるシーン。

 精神的にきつい時にお互いから差し出される食べ物には、味以上の何かがあったに違いない。差し出される食べ物には愛が詰まっている。目には目を、歯には歯を、食べ物には食べ物を、というわけだ。苦団子がハクの類神である川の神からもらったものであるところも示唆的。

 あと、ここで千尋が苦団子を半分取っておくのってすごく強かですよね…。推せるよ荻野千尋…。

 

④二人の魔女

 銭湯の文字を頭にそれぞれ冠する双子の魔女。特に姉の銭婆に好感を持たない人はいないのではないか。湯婆婆だってとてもチャーミングだけれど。この二人は本当に対照的な描かれ方をしている。特に、千尋が名をなのった時に湯婆婆が「長い」と切り捨てたのに対し、銭婆が「良い名前だ」というのには双子ながら全く感性の異なる部分を感じる。

 また、これだけ和風の世界観なのにトップに君臨するのが西洋的な「魔女」であるところも面白い。装いも彼女らだけ洋風である。日本の神であるハクが、西洋の魔女に服しているのもなんだか考えさせられる。西洋に搾取される和の国、みたいな。

 

⑤八つ裂き

 よく千と千尋の考察で、「ハクは身代わりになった」「千尋の髪留めが光ったシーンは…」「湯婆婆の八つ裂きは本当に実行された」というようなものを見る。

 こういった考察に対し、神話好きの僕としては「川の神」「八つ裂き」と聞けばヤマタノオロチを思わずにはいられない。八又に別れる暴れ川を龍に見立てたとされるのが、ヤマタノオロチ神話。つまりここで言う八つ裂きとは「川の氾濫、活性化」を意味するのではないか、と僕は思う。

 コハク川(=ハク)は開発で埋め立てられてしまった、と千尋は言った。そこから妄想するに、ハクはその時に力を失い、湯婆婆のもとへ行き、復活のため魔法を学ぼうとしたのではないか。その後湯婆婆の呪いも解け、千尋のおかげで自分の元の姿を思い出すことで、再び「川の神」になりたいと願う。そしてラストシーン。千尋を救う代償として湯婆婆に「八つ裂き」にされる。しかしこの八つ裂きは、「八つに分かれて活性化」すること、つまりコハク川の復活を意味するのかもしれない。であれば、ハクは八つ裂きになったものの、むしろそれによって姿を取り戻せた、と考えると少し面白い。川は源流を辿れば長い。一部が埋め立てられてもどこかが生きていることもあろう。その一部が、千尋が引っ越した新しい土地にある可能性だってある。

 

おわりに

 この映画は「どこ行ってたの千尋」と母が千尋を見つけるシーンで終わる。千尋はタイトル通り神隠しにあっていたのだ。その神隠しの物語は、ある時は油屋で、ある時は溺れかけた千尋をハクが匿う、「神匿し」の物語だったのかもしれない。