森の雑記

本・映画・音楽の感想

男尊女卑という病 

男尊女卑という病

 

はじめに

 「プラスサイズモデル」としてご活躍されている、藤井美穂さんをご存知だろうか。僕は初めて彼女の活動を知ったときに、自分に自信を持ち、自分らしさを表現し続ける生活を送る彼女を、心底尊敬した。世間が作る「理想」より自分の個性を追求できるのは、なかなかできるもんじゃない。

 が、彼女のTwitterを見たときにその印象は大きく変わった。彼女にはたくさんのいわゆる「アンチ」がいる。それは理解できる。そのアンチに対して、彼女が「フェミニスト」の視点から「品のない」言葉を返していることに失望したのである。女性の権利を守るフェミニズムの活動は政治的にも表現としても当然認められると思う。だが、彼女の品性を疑う言葉には何だかガッカリする。その言葉は彼女の「モデル」としての価値にも悪影響を及ぼすだろう。彼女が着た服を買いたいと考える人や、出演する番組を見たいという人が減ってしまえば、せっかくの自己実現が外的要因で完遂できなくなるかも知れない。もっとも、これに関していえば彼女の活動の場はアメリカであるから、日本人アンチへの日本語による反撃はそれほど影響がないと言われればそれまでだけれど。

 肝心なのはもう一つ、フェミニズム的活動と彼女の言葉についてである。彼女のいささか攻撃すぎる発言は「フェミニスト」「女性」を傷つけてはいないだろうか。強い自己主張は結構だけれど、それによって多くの人にフェミニストや女性が煙たい目で見られてしまっては、元も子もない。

 僕の個人的意見はさておき、今回はそんな女性の生きにくさを扱った著作、精神科医の片山珠美さんが書いた「男尊女卑という病」を読んだ。

 

全体をみて

 本書の特徴は、文章が非常に冷静であるところだ。この手の問題に対する主張をするとき、発信はえてして声高になりがちだが、片山さんは至って冷静に、ソフトに言葉を選びながら様々な論点を解説してくれる。また、彼女の分析は基本的に精神科医として、心理的な(フロイトの理論など)アプローチが源泉にあるので、主観が入り込まないところも良い。フロイトの主張が完全に正しいかは別にして、本書の大半はリラックスして読むことができる。

 以下、各章について。

 

1章 どんな言動に表れるのか

 「はじめに」で自らを「フェミニストではない」と前置きしてから始まるこの章。女性を下に見る男性心理が表面化する場面を具体例を持ってあげていく。その原因としての「攻撃者への同一化」という心理現象が面白い。

 人は誰かに攻撃を受けたとき、自分より「下位」に位置すると見なす相手に対して、同じように攻撃をしてしまうことがある。現代、その標的に女性がなってしまうことも多いそう。仕事でウダツの上がらない夫が上司に叱責され、帰宅後妻にあたるような場面が例である。女性に限らず、どんな人でも攻撃者への同一化を知っておくことで、自らのそうした言動に歯止めを聞かせられるかも知れないので、覚えておきたい。

 

2章 男性優位を容認する社会心

 集団が男性優位を容認していることを書く章。例として雅子さまへのバッシングが挙げられる。週間文春が2013年に行った、「雅子さま紀子さまのどちらが皇后にふさわしいか」というアンケートで、雅子さま支持38%に対し、紀子さまに62%もの支持が集まったそう。これには雅子さま男児を産まなかったことが影響している、と筆者は見る。

 この悪趣味なアンケートはさることながら、最近の紀子さまの子、悠仁様に関する種々の報道や、雅子さまのキャリアを評価する雰囲気は7年前とは様子が違うように感じた。時代とともに少しづつ変化はみられる。

 

3章 男性優位は無意識か、学習したものか

 フロイト先生でおなじみ、ファルスやエディプスコンプレックスの考えを用いて、先天的、後天的両面から男性優位の意識を考える章。マザコン諸君必見。

 

4章 社会の男女平等観の変遷

 時代を追って変化する平等意識の章。草食系男子について書いた部分が面白い。

 フロイトによると、人間には基本的に「性欲動」「自己保存欲動」の2つの欲動を持つらしい。著者はこの分析をもとに、近年男性の経済状況の変化により、少なくなった「食糧」を自らのためだけに使わざるをえなくなった結果、自己保存欲動が強まり、相対的に性欲動が弱まったことを、男性草食化の原因だと述べる。

 確かにそんな気もする。逆に、前澤社長に子供が何人もいるのもうなずける。

 

5章 男女の違いをどう捉えるか

 精神的アプローチから、男女差について説明する章。男性は女性より喪失に弱いという話に納得。確かに、失恋後いつまでもクヨクヨするの人間は男性に多い。

 

6章 男尊女卑のスパイラルに陥らないために

 声高に女性の権利を叫ぶ人への章。強行的なやり方が必要なときはもちろんあるけれど、男尊女卑はもはや宗教にも似た「精神構造」だから、外側から強引に変化をさせるのは容易ではない。GHQの戦後日本統治ではないが、人々の心持ちに根ざしながらも心持ちの変化を促すような表現が必要かも知れない。ましてフェミニストとしてバリバリにやっていきたいというわけでもなければ、ソフトな対応の方が都合の良い場面もきっとある。急進派には歪みがつきものである。徐々に、確実に。

 

おわりに 

 この本を手に取ったとき、自分はそこまで男尊的な考えは持っていないと感じていた。もっといえば、異性間の平等には敏感な方だとさえ思っていた。それゆえ、「男尊女卑の病」になどかかっていないが、参考程度に、と思って本書を読み始めたのだ。しかしこの本は、男性の視点を批判するものではなく、両性に対して語りかける本であった。なるほど、「男尊女卑の病」が男性に特有な病気だと考えていた時点で、僕はまだまだである。